《人心の 闇が育む 善と悪》

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 どうしようもないなぞなぞです。「ありさんは,どうしていつも裸なのでしょう?」。当たり前のことを尋ねられても答えようがありません。服を着ている方がおかしいでしょう! 答は,「ありのままに生きているから」です。バカにしてると怒らないでください。何となくなぞなぞになっている所を楽しんでみましょう。
 私たちはありのままに生きていません。服を着て隠しています。何を隠しているのでしょう。ありのままはどぎついからです? 肉体だけではなく精神も隠しています。例えば,人と向かい合う時,内々に勝ち負けを考えます。ブランドものを纏っているかという見た目から,社会的地位や履歴などの情報から,心密かに優劣を測っています。一方で,人は平等であるという原則が社会の筋であるために,優劣を表面に出すことは憚られます。体面する際には,おくびにも出しません。
 人の心にある妬みや嫉み,憎しみなどから,人に対して悪い行為を想定していることがあっても,表に出さなければ,咎められることはありません。動機だけでは非難されることはありません。ということは,日頃何気なく行き交う人の中に悪しき思いを抱いている人がいる可能性があるということです。人見たら泥棒と思え,という故事が思い出されます。そこまで強い悪意でなくても,嫌がらせやいじめの行為につながる邪心もあります。具体的な行動に及ばなければ,邪心はあっても構わないのでしょうか?
 邪な心を持つことは推奨されません。それが道徳です。道徳には強制という力の行使はなじみません。したがって,邪心は道徳の光から隠れるだけで,密やかに生き続けます。光には陰という弱点が残ります。陰で燃えていた邪心が表に燃え移り被害が生じると,そこに法を拠り所とする人権擁護の精神が発動され,ソフトな力からハードな力までを備えた具体的な対処が行使されます。
 人権擁護のソフトな場面では,邪心は表立ってしまうと迷惑を被る人が出るので,持たないようにしましょうという説示がなされます。当然,はい分かりましたという返事で落着しますが,邪心の始末は当人の裁量任せですから,確認はできません。
 人の内面にまで踏み込むことはタブーであり,そこは個人が支配する聖域とされています。性善説や性悪説はその聖域をどのように認識するかという選択の問題です。いずれにしてもそれぞれが選択をすればいいのですが,人の成す行いが善行ならいざ知らず,悪行は封じ込めるべきです。正義という概念はそのために生まれてきました。
 ところで,正義の反対語は何というのでしょう? 同じ疑問を持つ人がいたようで,ネット検索すると,いくつか出てきます。正義の反対語は「不義」のようです。英語が参照されているものもありましたが,正義はjustice,不義はimmoralとなっていました。何かしら違和感があります。(対義語・反対語辞典というのがありました:http://hanntaigo.main.jp/ )

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(2012年09月16日号:No.651)