《外からは 内の様子は かすみがち》

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 ブランド志向には,自分のセンスに対する自信のなさの反映であるという人がいます。そのことに当人が気付いたら,ブランド離れが起こることになります。ブランドについて全く無知なので,その言の妥当性について判断することができません。装いに対する好き嫌いという趣味にセンスがあるということも,実感できません。上等の生地か粗末な布か,そういうことではなく,肌触りが良いかどうかという程度の関心しかありません。
 ブランドにすがるのは,人の目に対する防衛のつもりではないかと思っています。すなわち,ブランドに頼ってしまう人は,ブランドによって装っているかという目で人を見ているから,自分もそう見られていると想像しているのでしょう。
 人の装いがブランドであるかどうかなど全く無頓着で,清潔であれば十分なので,自分もそのように見られていると高をくくっているのは,おめでたいのかもしれません。値踏みされているとも知らずに,可哀想なものです。しかし,何の思い入れもなく普及品レベルの暮らしをしていても,昔の暮らしや未だ貧しいといわれる国の人から見れば,十分にブランド的暮らしに見えているのかもしれません。何がブランドかという判断は絶対的ではないようです。
 ブランド品には信頼があるという特質も意識されているかもしれません。かつて,モノ作りの職人さん方は良いものを作るというプライドを持っていました。身近にあるものは職人魂に裏打ちされた信頼の贈り物でした。広く流通されていないということで商業的なブランド化には至らなくても,良いものであることにはかわりはありません。偽ブランド品を作って恥じない人がいるという現実は,信頼の絆を綻びさせるだけで,社会を住みにくくしています。
 ブランド品には戦略として高級感が伴います。そのイメージを纏うことで,自らが高級であると思いたいのでしょう。さらには,高級な自分だからブランド品が似合うと錯覚しているのかもしれません。どうぞご随意にしてください,そんなに見栄をひけらかさなくてもいいのにと思うばかりです。ときおり,テレビの中で暮らし拝見的に紹介されていることがありますが,住む世界が違っているので,お近づきになることはありませんので,助かっています。
 ブランドの世界に住んだことがなくて,あれこれ考えても,本質はつかめるはずもありません。恋をしたことがない者が,恋を語る資格はないのです。よく分からない世界があるようなので,ちょっと覗いてみただけです。外からは,こんな風に見えていますというだけのことです。

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(2012年09月23日号:No.652)