《○×の 評価をすれば 生き辛い》

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 心が広い人とはどういう人であろうか?
 心が広い人とは,この世の中には絶対というものがあり得ないことを知っている人であると書く人がいます。「自分の心にも絶対はないし,相手の気持ちにも絶対はない。絶対に正しいなんてものは,世の中にはない。すべては相対的で,すべては流れていく。今正しいと思っていることでも,明日には間違っているかもしれない。歴史はそれを証明してきた。しかしながら,それでは何もできない。正しいと思わなければ生きてはいけない。どうすればいいのか? 肝心なことは,ひょっとしたら間違っているかもしれないという心を持っていることである」。
 齋藤茂太氏が「人生80%主義」で述べています。「対人的トラブル,仕事上のトラブル,世の中には数限りないいろいろのトラブルがある。その発生源を観察すると,ほとんどが100%,完全を望んでいることから起こっている。100%に少しでも近づこうとする努力はもちろん必要だが,たとえそれが達成されなかったとしても,それは当然のこととして受け止める心が大切だ」。
 曽野綾子氏が「失敗という人生はない」と語りかけています。「この世で完全などどこにもありはしないと同様に,全く救いようのない暗さなどというものもない。私はいつもゼロから出発する。ゼロから見ればわずかな救いも,ないよりは遙かにましである。私のは,足し算の幸福であり,いつも自分の不幸を嘆いている人がいるとすれば,それは引き算の不幸のように私は思う。どちらがいいとか悪いとかいうことではない。ただ私のような計算の方法を使うと,一生に一度もよいことがなかったなどという人は,あり得ないはずなのである」。

 いずれも同じ趣旨のことが言われています。分を弁えてほどほどの人生を歩む,中庸の選択の勧めです。どうしてこうも同じメッセージが形を変えて発せられているのでしょう。メッセージはそれが必要だから現れてきます。世間では完全を信奉し,皆無に絶望する単純思考が氾濫しているという判断がなされているようです。幸せか不幸せかという選択判断しかできずに,幸せでなかったらそれは不幸せという論理にとらわれているということでしょう。
 ディジタル思考が情報化という世界を創造してきました。1か0かという2値の繰り返しによって,ディジタル計算機は動かされています。それは情報の曖昧さを消去するために必要な前提であり,有るか無いかという単純な確認を基本とする演算が可能になりました。機械にはアナログの曖昧さが判断できないからです。しかしながら,そのディジタル思考はもっとも基本の判断だけに限定されており,その後の論理の展開や結論についてはディジタル性は見えなくなりアナログの世界が現れます。1本の糸が紡がれて多様な衣装が出来上がるようなものです。
 有るか無いかという形の判断は,それが相応しい物事について限定すべきです。愛してる? 愛してない? 愛してる! どれくらい? この展開は,ディジタル判断からアナログ判断に転換しています。人はアナログの世界に生きていて,アナログな判断をし,アナログの行動をしています。野球の打者が打席に立ってそれぞれヒットを打つか打たないかというディジタル成果を積み重ねることで3割打者というアナログ評価を得ていきます。世間でのアナログ判断の基準として,「3割なら上等」という提案をしておきましょう。

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(2012年10月07日号:No.654)