《伝えたより 伝わったかを 大切に》

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 過去の歴史を見るとき,「何をしたか」ということよりも,「何をしようとしていたか」ということを読み取ると,現在に役に立ちます。
 過去の歴史を見るとき,結果よりも目標を読み取ると役に立ちます。
 同じ内容のことを述べた文章を並べてみました。前文の方が動きが感じられて受け止めやすくなっています。後文はすっと入って来ずに,考える間のひっかかりがあります。「何をしようとしていたかということ」と「目標」とを比べると,言葉の体感度合いが全く違います。
 「集まれ」と「集合」という掛け声にも同じ体感の違いがあります。その要因は,動詞と名詞の違いです。動詞は体を動かす言葉であり,名詞は頭で理解するための言葉という違いです。文章として名詞で言うべきところを「○○すること」と動詞を使った名詞化が可能です。文章としては○○することという表記は美しくはありませんが,言葉を体感させるという効用があります。分かりやすさを求めると,多少のもどかしさは我慢しなければなりません。
 機器のマニュアルが難解であるという評判を聞きます。普段聞き慣れない技術用語が混じり込むことも一因ですが,名詞による説明になっていることも隠れた要因ではないかと推察します。マニュアルというのは扱い方,つまり動作ですから,動詞で語られる方が伝わりやすいはずです。習熟している人は名詞を動作に変換することは容易いでしょうが,素人にはその変換が難しい作業になります。まさにその部分が難解と感じられているはずです。
 理系の人には,文学の表現が苦手なところがあります。ダラダラとまどろっこしく感じられるようです。簡単直裁に表現しないと曖昧さが紛れ込むという感じがあって,単純明快に名詞を主体とする定義された表現だけを駆使します。結果として,理系の文章は,厳密ではあるのですが,あまりにきちきちしており,何となく理解できるという曖昧な理解は拒絶されてしまいます。何となくという状態は,かなり感性的です。感性は多様であることに意義があるので,理系の世界には馴染みません。それがために,特殊な専門領域として閉鎖的にならざるを得なくなります。
 言葉の作法は,相手に伝わるように言葉を選ぶこと(伝達可能な言葉の選択)です。人を見て話すということです。人を見るというと,バカにしているという意味になることがありますが,そういう感覚は無用です。カタカナ語を使って訳の分からないことを話す人もいますが,そういう感覚も不要です。ただ真面目に,伝わることを大切に思うことです。言葉は馴染んでいるかどうかで伝わり方が違います。その違いは特に優劣ではなく,単なる違いでしかありません。その違いを埋め合わせる気配りが,作法になります。

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(2012年10月14日号:No.655)