《違和感を 見過ごしにせず 用心し》

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 車で走っていると,珍しく青信号がちょうど同期して,かなりの信号区間を走り抜けることができました。この調子といい気持ちになっているところで,幸運は長続きしないということで黄色信号に阻まれて停止です。停止線に捕まった先頭車両になりました。滅多に先頭になることはないので,しばしの待ち時間を楽しんで,さあ発進です。ところが,次もどういう加減か,いつもより数多くの信号が青続きになって,走り抜けて,またまた先頭位置での停止となりました。
 今日の会議はスイスイと進んでいくが,一気に終わることはなく,調子に乗っているところで,ストップが入るかもしれない,そんなことを思いつきました。主催する会議に出席するための道行のことでした。二度も同じことが続いたので,三度目は会議の進行に現れるのではという余計な心配をすることになりました。とはいえ,ストップが入るだけで,しばし待てば,青信号になるということなので,危惧するほどではないという妙な安堵感もありました。
 何かをしようとする前には,ちょっとした日常の進行の変化に予兆を感じるということがあります。多くの場合,後で考えると,そういえば直前にあんなことがあったと予兆が後の祭りになります。験を担ぐということもあります。予兆になることを意識的に仕掛けるという巧妙な手立てです。兆しという言葉もあります。この世には,人の考え及ばない連鎖の仕組みが張り巡らされているのかもしれません。
 その連鎖の仕組みを縁起というのかもしれません。本来の縁起という概念がどのようなものであるのかということを学んだ経験はありませんが,方便としての理解が許されるなら,ここで思い描いていることも的外れではないでしょう。縁起=エンギを倒置して,ギエン,それがなまって,ゲン,験を担ぐとなったと読んだことがあります。
 虫の知らせという言い方も,同じ類のイメージです。普通は偶然に現れる予兆やゲンを,常時引き出す仕掛けが占いです。いずれにしてもさまざまな予感があったとき,それをどこまで確実なものと信じるかどうかが,問題です。過度に思い悩むこともなければ,過小に無視することもないでしょう。予兆として現れたことを起こりうることとして,想定しておくことで,難を逃れることになるかもしれません。思考範囲を広げて,想定世界を大きくする縁として付き合っていこうと思っています。
 ところで,会議の行方ですが,議論の推移が止まって協議という足踏み(信号待ち)が2度ほどありました。その間,議長として先頭に位置して,議論の行方を見守っていました。大した紛糾もなく,落ち着くべきところに軟着陸させることができました。予兆の通りということに,なったようです。幾分こじつけているような気がしないでもありませんが?

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(2012年12月16日号:No.664)