《処世訓 額から下ろし 握りしめ(2)》

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 明の崔後渠(さいこうきょ)による「六然訓(りくぜんくん)」という寸言があります。検索すると,多くの方が生きる上の鑑としているようです。

     自處超然   じしょ ちょうぜん
     處人藹然   しょじん あいぜん
     有事斬然   ゆうじ ざんぜん
     無事澄然   ぶじ ちょうぜん
     得意澹然   とくい たんぜん
     失意泰然   しつい たいぜん

  自處超然  自ら処すること超然
   自分自身に関しては,ものに囚われないようにする。

  處人藹然  人に処すること藹然 (藹=草木が繁茂すること)
   人に接して相手を楽しませ心地よくさせる。

  有事斬然  有事には斬然
   事があるときはすっぱりと活発にやる。

  無事澄然  無事には澄然    事なきときは水のように澄んだ気でいる。

  得意澹然  得意には澹然
   得意なときは淡々とあっさりしている。

  失意泰然  失意には泰然
   失意のときは泰然自若としている。

 藹然であるためには,砂漠の中のオアシスのように,側にいる人を憩わせる場を整える必要があります。費用をかけて設備を整えるといったことではなく,人としての態度のことです。人が和むのは,笑顔の出迎えを受けるときです。笑顔は人を受け入れるサインです。風になびく草木は,人を招き入れます。草木の緑が森の安らかさを感じさせるように,側にいると安心できるような広い心を笑顔に託すようにすればいいのです。

 斬然であるためには,切り口の鮮やかさが感じられるような,迷いのない振る舞いが不可欠です。優柔不断の行為からは,思い切りの悪さ,後味の悪さが残り,未練といった残滓がつきまといます。事あるときは潔さが気持ちを涼やかにしてくれます。冷徹であることの温もりといった矛盾が有事には必要です。もちろんその場でのやむを得ない怒りを受け止めるといった覚悟を持ち合わせていなければ,できないことです。

 澄然であるためには,あらゆるこだわりや関わりを断ち切って,風のようになることです。無我の心境といわれている状態がそれに相当するのかもしれませんが,想像するのみです。あるがままでありながら,心は微動することもない,仏像の姿に学ぶことができそうです。欲のない心根が澄んだということなら,無事なときでなければ,凡人には持ちづらいことです。危急存亡といった究極の有事の際には,生きるという欲がかなりざわついてしまいそうです。

 澹然であるためには,のどを潤す湧き水のように,味わうという余計な感覚を抑えておくことです。得意のときは,気持ちの高ぶりの位相を半周期ずらし,同調増幅を避けるようにします。得意の波が気持ちの高揚と同調するとき,波高が激高し,足元をすくわれることになります。無味無臭の湧き水であればこそ,得意の熱を冷ますと同時に,気持ちの感度を無の位置にリセットしてくれます。得意のときには,酒や濃い味のものに囚われやすいものです。

 泰然であるためには,浜辺の松の木のように,腰を低く地に足を踏ん張る態勢をとることです。失意に犯され腰高に佇んでいると,気力を身体に込めることができません。静かに呼吸を整えながら,迎え撃つ構えを取ることで,気力が漲ってくるものです。状況の改善ができるかどうかという結果に拘泥することなく,ただいまの一瞬を持ちこたえるのみという開き直りに似た覚悟が必要になりそうです。

ご愛読いただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
よき新年を迎えられますようにお祈りいたします。

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(2012年12月30日号:No.666)