《損なこと 得なことより 多めかも》

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 世の中のことはお互い様です。人の関係は五分五分であると思うようにしてきました。とはいえ,個々の事象では不公平が生じ,焼酎のお湯割りのようなずれを感じてしまうことがあります。極端な事例では,宝くじを買った人の中で、当たる人と外れる人がいます。得する人がいれば損する人がいます。
 そこで,個々の不公平は集めると公平になるという手前勝手な論理を想定をして,何回も買い続けるといつか当たる,つまり数打てば当たる鉄砲の論理を持ち出します。残念ながら,ほとんどの人が,想定を成り立たせるに十分な数には至らないために,公平に当たることは実現しません。
 信号待ちで列の後ろに車を着けています。青信号で進み始めますが,発進の順番が回ってくるまでに思いの外時間が掛かり,滑り出した途端に黄信号で,信号待ちの先頭です。前の車が青信号でさっと発進してくれたらゆうに間に合っていたのに,置いてきぼりを食ったような不公平感があります。後続の車のことを考えてサッサと発進しようという気はないのかと,不平をつぶやきます。この不公平は皆が気をつかってくれたら解消できるものと身勝手に考えてしまいます。青信号の発進車列はどこかで途切れるものであり,必ず誰かが置いてきぼりになるはずです。
 良い目に会わないと不公平を募らせるのが人の弱さですが,考える対象を逆転してみます。悪い目に会わない不公平感というものはあるのでしょうか? 例えば交通事故で命を失う確率は,宝くじに当たる確率よりも高くなっています。交通事故に遭わないのは不公平だとは思わないはずです。当たりたくありません。宝くじに当たる前に交通事故に遭ってしまうのが公平なのに,悪い目に会わないことは幸いなのです。こういう局面では,お互い様という発想は馴染みません。
 どうして自分だけ割を食うのか,なんで損な役回りばっかり回ってくるんだろう,そんな不幸な自分を哀れんでみるときもあります。すぐに,そう思ってみても詮無いことと振り切ってしまいます。確かに損することもありますが,得することもないわけではありません。得得とはいかないことは,損損とはいかないことと同じ程度であり,多くは損得の両方が降りかかっているはずです。
 損な役回りを引き受けていれば,同じだけ得な役回りがやってくるはず,そう思っていればいいのです。どんな得があったかなど,詮索しないことです。気がつかないうちに難を免れているという得をしているのかもしれません。
 人生における損得は,点の采配という利子によって,人智を越えた五分五分の勘定になっていると思っていればいいのです。分からないことがあるというあきらめが,楽しい人生の切符です。

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(2013年01月20日号:No.669)