《分かるだろ 心づもりが 伝わらず》

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 いじめによる自殺,暴力的指導の告発といった、人間関係の破綻の事例が噴き出しています。指導する者と指導される者の間の思惑がすれ違っている結果です。指導する側からみれば,指導という行為の中に,愛のムチという強制があります。馬に乗っている人が、速く走らせるためにムチを入れるということをします。力の発揮を促すために尻をたたくという刺激を与えることはどこでも見受けます。発破をかけるという働きかけをしないと,肉体的な力を限界まで発揮させることができないという了解があります。
 能力の開発,増進には辛さやきつさが伴うので,気乗りがしないものです。その気持ちのブレーキを断ちきるためには,ブレーキをかけていると痛い目に会い,ブレーキを外せば痛みがなくなるという,単純な痛みメッセージを送る必要があるという考え方があります。しかし,このお仕置き型の指導は効果が無いばかりか,暴力とみなされます。運動能力に関する指導の場で愛のムチという押しつけが効果を上げていたという経験は,錯覚であったのです。愛のムチという切ない言葉で包装して,気持ちの隠蔽をしてきたのです。
 愛とムチとは矛盾する感性的位置関係です。素直にはつながらないということをはっきりしようという雰囲気になっています。言葉に備わる曖昧な広がりをそぎ落として,単純明快です。それは,人間関係に対する感性が単純になってきたためです。愛するからこそのムチであるという指導する側の愛のメッセージは,指導を受ける側にはただのいわれのないムチにしか受け止められないということです。師弟愛という言葉は実態を表さなくなっているのです。
 ちょっとしたいたずらと言い抜ける執拗な嫌がらせ,しつけという上っ張りを被せた虐待,愛の強さに酔いしれたドメスティックバイオレンス,いずれも善意を装ってはいても,実のところ悪意による犯罪行為です。大事なことは,行動をする者の意図が何であれ,行動の意味は行動を受ける者が決めて解釈するということです。行動する者がそんなつもりではなかったとしても,被害を受けた者を護ることが優先されます。
 したがって,個々の事例の形や程度から,してはいけないことの一般化をすることはできません。ある行為を被害と思うかどうかは,受け手が決めることであり,一概には決まらないからです。同じ行為が,あるときある人には被害と受け止められることになるということです。
 人間関係は,知らない間柄では敏感に,親しい間柄では鷹揚になります。同じ行動も,間柄の深浅に応じて,意味は正反対になるものです。間柄を読み間違えないようにしないと,行動の意味を伝え損なうことになります。自分勝手にならないように,慎重に,控えめに,・・・。

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(2013年02月03日号:No.671)