《ほどほどで やってみなければ 進まない》

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 優等生の思考路線というものがあるのかもしれません。100点満点でなければ意味がないという物差しを振りかざしてきます。その意欲は認められるとしても,どうにも困ったことがついてくるときがあります。それは,至らない点があると,丸ごと否定するという暴挙です。優等生と結びついたテストでは正誤という二者択一が一般的です。正答でなければ間違っているということです。ところで,世間一般では,正答でないからといって間違いとは言えないということがたくさんあります。
 正誤の曖昧さを許さないという路線の外に,さらなる横車が押されます。ある組織が善かれと思い決議し実行し始めた活動に対して,全員の認知が不十分であるから,簡単には認められないということを言い出してきます。善いことであるかどうかではなく,全員の了解がないことを理由に,ケチを付けてきます。自分が参画していないことについては,ことの是非を問うことをせずに,勝手に決められたことは信用できないと人は考えるものであるといわんばかりです。
 善い活動であれば,たとえそれが周知のことでなくても,推進していくことに支障はないはずです。知っている人と知らない人の間で多少のすれ違いがあるかもしれませんが,それは問題ではありません。すぐに解消できる程度のことだからです。それをさも大きな問題であるかのように言い立てるのは,思考のバランスを欠いていると思われます。  世間の物事は満点でなければ動かないというものではありません。至らなさを言い出せばきりがありません。しかし,そのときの姿勢に違いが現れます。至らないから止めろという姿勢と,至らないところを補うことに努めるという姿勢です。人の考える力は,何とかしようという向きに使うものです。止める向きの思考は,思考の停止です。
 十分でないから行わないという論陣はしらけます。一定の成果があるのならやればいいのにと思います。少しずつ改善していくのが,人の歩みであったことを想起してほしいものです。優等生であれば歴史も学んでいたでしょうに,知っているだけで使えない知識にしているようです。満点のことを考えていたら,永遠に何もできなくなります。満点の世界は神の世界と棚上げしていた時代のほうが賢いと思わざるをえません。

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(2013年03月31日号:No.679)