《することが 思いつかずに 落ち着かず》

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 さしあたってのことをやり終えて,時間の空きができることがあります。何をどうするか,その焦点が定まらなくて,ぼうっとしていると,やがて落ち着かない気分になります。走っていないと倒れるという忙しない癖が身についているということでしょう。貧乏性だといわれています。
 「明日の朝起きるのが楽しみな人はしあわせである」という言葉があります。楽しみとは,何事かすることが有るということです。したいことがある,その先に,何のために生きていくかという目的が意識できるのでしょう。し終えた後より,している途中が気持ちの張りがあるというのは,どういうことでしょう。目の前のニンジンを追いかけていることが生きるということなのでしょうか。昔の造営工事で最後の片付けをし残しておくという所作もあるように,し終えるのではなく中途半端なままにしておくということも考えられます。
 明日はしなければならないことがある,そういうしがらみを抱え込んでいる現実は,普通には楽しみとはなりません。そこで,しあわせではないことになります。しかし,そうであるからといって,不幸せでもありません。少なくともすることがあるからです。しなければならないことは,他者とのつながりが背景にあります。何もすることがない,その孤立性こそが不幸せの形です。仕事を失うことは,収入面は別として,自分の立ち位置についての実感を失うことになります。
 自分が生きていなければならない,そういう思いが必要です。そのために,守るものを持つといったことが勧められます。「母は強し」といわれるのも,守るべき子どもを抱えたときの母の生きる思いの強さです。つらいことがあっても社会につながっていたいという思いも,生きる実感を求めてのことです。「人の一生は重い荷物を背負って坂を登ること」という例えも,つらい人生であることのあきらめではなく,そのような生き方こそが生きるに値する生き方であるという知恵と受けとめることができます。
 人は社会の中で他者と陰に陽につながって生きています。そこでは,人一人がある場を占拠することになります。自分の住居を持つということは,そこを占拠して他者を排除しているということです。ある立場にあるということは,他者からその立場を奪っているということです。好きな人と結婚できたことは,同じ人を好きであった誰かから好きな人を奪ったことになります。自分があるということは,そこにいたであろう他者を追い出したことになります。そういう現実を認めると,追い出したであろう人に対して「負い目」を感じます。その人の分までしっかりと生きていくべき責任があります。自分の人生は自分のものだからいい加減であってもいいということは,失礼な所業です。このような責任のある生き方という身の処し方もあり得るでしょう。

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(2013年05月19日号:No.686)