《かさついた 言葉を避けて 音楽に》

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 FM放送のクラシック音楽を耳に捉えながら,ものを考えていると,心静かでいられます。この頃,テレビ番組を見ていると疲れてしまうので,あまり見ないようにしています。ニュース番組をちらっと眺める程度にしています。ドラマなどでは人の気持ちをざわつかせる展開があからさまで,人の嫌な面をこれでもかというように見せつけられます。ドキュメント番組では,暴露的な内容を追いかけ回しています。その悪趣味な露骨さに合わせるように,会話の言葉も品性が抜け落ちていて,気分が害されます。わざわざ気分の悪い目に合うこともないので,自衛のために回避しています。おそらく歳を重ねたことで気力に衰えが出てきたことも影響しているのでしょう。
 音楽に包まれていると,美しい善きものを共に感じようという誘いに,気持ちがなびいていきます。音楽という世界の意味は,人は清らかでない部分を持ち合わせていますが,それを洗い流そうという試みではないかと思われます。妙なる調べで気持ちの乱れを整え,人として共通の生命リズムに共鳴することで,邪な雑念が上書きされていくようです。音楽に対する反応は,体と心の両方同時であり,その一致が人に心地よさを与えてくれています。
 流れゆく時を忘れて聞き入ってしまうという境地は,至福の極みです。穏やかなひとときを過ごすことが少なくなっています。若い頃は,いずれはオーディルームに籠もって音楽に浸る暮らしをしたいものと思っていましたが,何となく思っている程度では,実現するはずもありません。放送の音楽に寄り添っている程度の,ささやかな鑑賞で済ませています。自分から求めて選ぶ鑑賞ではありませんが,それだけに思わぬ音楽に出会うという楽しみがあります。来るものは拒まずという主体性の無さを自分流としています。
 吹き寄せる風に身を任せるのと同じで,聞こえてくる音楽に耳を傾けている,そういうこだわりの無さをあえて固持しています。限られた触れ合いの時間を,自然な出会いに任せています。もうすぐ終了の時間です。明日はどのような出会いがあるのか,雑事にかまけて耳を余所に向けているかもしれません。

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(2013年05月26日号:No.687)