《所在なく 自己観察を してみれば》

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 天の邪鬼。奇をてらう。人の逆をする。皆が右に行けば,あえて左に行こうとする。その選択に対する根拠はなく,単純に反対の道に踏み込んでいきます。多分に生い立ちが影響しているのでしょう。幼い頃にあちらこちらに引越をしていました。行く先々でいつもよそ者であったために,皆とは同じにはなれません。皆とは違う思いや考えを持たざるを得ない環境で育ってきました。郷に入っては郷に従えといわれますが,よそ者として遇せられるという郷に従うしかないのです。
 自分は違うのだということを意識することで,自分の存在を確認できます。皆と同じであると装うことのいかがわしさがありました。開き直ったことになります。違うということでも,たった一人ですので,大して問題が起こることもなく,適当な距離を保っていれば,共存できていました。一緒にいると困るが,離れている分には面白いという扱いです。そのような接し方が習い性になって,概して,来るものは拒みませんが,こちらからすり寄ることはしないという接し方を貫いています。もちろん,現実の姿は厳密ではありません。
 生業としている分野とは何のつながりもない世界に入り込んで,あれやこれやのことに関わってきました。理系の世界に身を置きながら,文系の世界のことを引き受けてきました。見かけの上では破天荒であるかもしれませんが,実のところは,意欲や思考法などは少しもぶれてはいません。真っ直ぐに歩んでいます。そのことが新鮮な違いと感じられるのでしょう。あれがあるからこれもあるという総合的な文系の思考に対して,これがあるからあれはいらないという選択的な理系の思考が,面白く受けとめてもらうのでしょう。
 「和をもって貴しとなす」という言葉が,皆が同じでなければならないことを意味すると思われています。しかし,皆が違っている中で,どのように折り合いを付けていくかが尊いのであると考えようとします。「男は度胸,女は愛嬌」とは,男は本来気弱であるので度胸を持たせようとし,女は気が強いので優しくあれと,反対の目標を持たせたものと考えるべきではないか,「三本の矢」の喩えは,仲良し兄弟だから出てきた言葉ではなく,仲の悪い兄弟だからこそ協力せよと言わざるを得なかったのであろうと推察しています。
 言葉は言わなければならないという背景があるはずです。裏を読むということではなく,ごく素直に読んでいるつもりです。言葉に限らず物事には,そうであるべき理由があると考えるのが自然でしょう。必要は発明の母という言葉がありますが,必然性という土台を抜きにして物事を考え見ることはできません。ところで,このコラムを書いている背景には何があるのでしょう? 

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(2013年06月02日号:No.688)