《なぜだろう 違いが見えて 解けていく》

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 窓の外数メートルのところに田んぼがあります。イネの緑が朝日に照らされた部分と陰の部分で濃淡に色分けされています。ついこの前に田植えがされていましたが,いつの間にか尖った葉が空に向かって勢いよく突き上がってきました。まさに青年という時期と見て取れます。やがて実りに向けた段階に移行していくのでしょう。無事に育ち上がっていくように願います。
 植物には一年生と多年生があります。そういうものと受け止めて,植物を知っていると思うと,それはただ知っているという段階に止まります。なぜ違いがあるのか,何がそうさせているのか,違いの理由に関心を持つことが,創造の扉になります。もちろん,疑問を持てばいいというのではなく,疑問は解かれて始めて意味を持ちます。ただし,疑問を解くための方法や手段の精度によって,解き明かされる程度が左右されます。観測技術の絶え間ない発展が,知恵の精度を時代と共に高めてきたのです。
 社会という組織が知恵によって支えられているとするならば,人が持つ知恵の精度によって,社会の有り様が決まることになります。知恵が粗雑な段階にあれば,社会も粗雑になります。教育という営みによって,優れた先人がつかみ取った知恵をあまねく人に分け与えることができ,結果として社会の精度が高まります。文化的,文明的な社会は,教育という機能が働いていることによって可能になります。
 その教育は,なぜだろう,どうしてだろうという疑問を持つ者にしか受け入れることができません。知恵を教えられても,そんなことに興味がないという壁で遮られます。その壁を突き破るために教育制度という強制力が用意され,勉強という苦行が与えられます。知恵の扉は重たいので,開くには汗を流さなければなりません。
 ところで,なぜだろう,どうしてだろうという疑問は,どうすれば手に入れることができるのでしょう。違いという目を持つことです。一つ一つを見るのではなく,いくつかのことを一緒に眺めて,何が違うのかという観測をします。見たものを分けていきます。分けることが分かることになります。そこで,なぜ分かれるのか,どうして分かれるのか,その疑問を意識できたときに,知恵の扉の前にたどり着くことができます。そこで,先人の教えを仰ぐか,自ら解く楽しみをつかみ取るか,行動に入る一歩が人を育てることになります。

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(2013年08月11日号:No.698)