《顛末を つなぐ「だから」に 隙がある》

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 梶原しげるさんの本を読んでいて,"その「だから」は本物か"という一節に興味の針が振れました。「私はおいしいお店を食べ歩くのが好き。だから,飲食店をやってみたい」と飲食店を始める人が話すことがあるそうです。この「だから」は間違っているというのです。食欲と好奇心で美味しいものを追いかけることと,お店の経営とは別の話なのです。「ケーキが好きだから,大きくなったらケーキ屋さんになる」という幼い子どもの話ならいざ知らず,大人が口にすることではないといったお話しでした。
 話をするときに,「だから」はほとんど無意識的に使っています。「毎日暑いですね。(だから)疲れてしまいます」。「今日夜は飲み会。(だから,夕食は要らない)」。この程度の話なら突っ込みが入ることもありませんが,きちんとした話の時には,気をつけなければなりません。企業が先読みをして事業を展開するという場で,例えば,「エコの時代,だからハイブリッド」という戦略が採用されていきますが,「だから」をつなぎ間違えると大損を招きます。
 就職が難しい時代,試験をあちこちと落ちているうちに,「不採用続き,だから自分はダメな人間」と落ち込んでいく若者がいるかもしれません。この「だから」も拙い使い方をしています。自分に合った職場ではなかっただけで,よい勤め先に出会うための不合格であったかもしれません。「○○だから□□」という言い方に考えを閉じ込められてしまわないように,安易に「だから」を持ち出さないことです。
 因果関係をきちんと割り出さなければならない場合があります。曲がり角でのAとBの衝突では,すべての可能性を考えることから始まります。A,B両方がいったん停止して確認すれば回避できたはずです。Aが停止したらBが停止しなくても,またAが停止しなくてもBが停止したら,ひやっとはするでしょうが,衝突は避けられたことでしょう。A,B両方が停止せずに突っ込んだ,だから衝突した,ということになります。
 ところで,衝突が起こった要因には,たまたま同時に突っ込んだというタイミングもあります。A,B,どちらかが,そこの曲がり角に来る前に,ちょっと知り合いに会って話す時間が長くか短くずれていたら,同時に曲がり角で出会うことはなかったことになります。知り合いの人は余計な話をしなければよかったと責任を感じることになります。「私が余計な話をして引き留めた,だから,A(B)さんが事故に遭った,と考えることができます。必然性に偶然性が絡んで来ると,「だから」という言葉は連鎖的に拡散していきます。
 いじめがあった,だから自殺した。あってはならないことが止まらないのは,どういうことでしょう。コップの水という例えがされます。コップにあふれるほどに水が入っていました。そこに一滴の水滴が落ちました。だから,たまらず水が零れます。糸が張り詰めていた。そこに小さな力が働いた。だから,糸はぷつんと切れました。いじめが最後の一滴であったかのような捉え方がされることがあります。既に十分に別の原因で追い詰められていて,いじめはきっかけに過ぎないという言い訳です。いじめが続いていたという事実は,自殺に向けて追い詰めてきたということです。いじめは決して一滴の水ではないのです。コップにあふれるほどの多量の水をゲリラ的にぶち込んでいくのがいじめなのです。
 もちろん,早めに気付いて,いじめの水をくみ出すポンプを投げ込んでやっていれば,あふれることはなかったことでしょう。偶然の救いの手が及ばなかった,その側にいる者の反省が広がっていくことを願うばかりです。

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(2013年08月25日号:No.700)