《観客の 目利き次第で 明るさが》

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 若者による破廉恥行為の映像がネット社会に公開されて,あちこちの現実社会に迷惑をかけています。ネット上の画像はただのファイルに過ぎないという錯覚があるようですが,画像が記号として記録している事象は現実であるという,当たり前のことを思い知らすことになっています。面白いことは普通ではないことであり,だから人の注目を集めることができて,目立ちたいという欲望を満たしてくれるというのでしょう。してはいけないことがあるという歯止めが効かなくなっています。
 子どもの世界には起きてはならないいじめがあります。人をいたぶってみるというおもしろ感が湧いて,ターゲットを選び,人を貶めるイメージを張り付けて,テレビの中で日常的に行われているエンターテイメント化が進められます。そうすることで,周りの観客の笑いを引き出せれば,評価されたという自己満足に浸ることができます。もっとみんなに受けたい,それがいじめを際限なくエスカレートさせていきます。観客までが肩入れするようになります。
 自分の存在を,人がどう思うかという評価に委ねるという点で,いじめは破廉恥画像とつながっています。見て見てという若者たちの孤独があるのです。自分が何者であるのか,自己確認ができないのは,育ちの中でそのままでいいという認められる体験をしてこなかったのでしょう。おそらく「今のままではダメ」というダメ出しで追い立てられて育ってきたのでしょう。普通であることをきちんと認めることがあれば,面白いから認めるというつまらない認知にすがる必要はありません。
 いじめを止めるには,観客がはやし立てることなくしらけてみせればいいことです。いじめなどなんの面白いものなどではなく,つまらないから止めろと言うことです。周りの者は無視する相手を間違えています。無視していじめるのではなく,無視していじめを止めさせるのが,普通人のすることです。そういう普通の感覚を子どもや若者に伝えてこなかったことを反省しなければならないようです。
 ちょっとした悪ふざけ,些細ないたずらなどは,若い者の特性として,昔からあったことで,今に始まったことでもありません。今の違いは,増幅拡大されるということです。関係者の中に封じ込められて,その影響が限定されていた昔と違って,ネットによる不特定多数への公開は,ことをおおっぴらにするために,負の影響は増幅されてしまいます。小さな悪ふざけも広まってしまうと,無視できなくなるのです。一時的ないたずらも公開されることで引っ込みがつかなくなってエスカレートします。いじめの新種であるネットいじめは,まさに公開の怖さを利用しているのです。情報社会における広がりという機能が,かつての社会と違った効果を生み出していることを弁えなければなりません。

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(2013年09月22日号:No.704)