家庭の窓
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ガラケーを利用している人です。なんとかというスマホなどは,全く近づく気配がありません。面倒だという消極的理由ではなく,これ以上邪魔されたくないという積極的理由からです。傍から眺めていると,閑さえあれば画面をタッチしているようで,それ程までに関わるものであれば,御免被りますという判定です。自分の時間をもっと身近なものとの関わりに費やしたいものです。目の前の風景,風や香り,近くにいる人の佇まいといったトータルな現実の中で生きていたいと思っています。
画面の中のガラス越しの世界はバーチャルと呼ばれているようですが,そこでは生きられません。そんなことはない,知らないから,と言われそうです。人は環境に沿って生きていきますので,バーチャルな生き方もあり得るのでしょう。ただ,欲しいものではないということです。テレビの中の世界とこちらの世界は別世界です。目の前にあるのでつながっているようですが,鮮明な蜃気楼でしかなく,手で掴むことはできません。ごちそうの画面を見て,お腹が満たされることもありません。バーチャルと言っていても,幻なのです。
人を殺してバラバラにするといったおぞましい事件が頻繁に起こります。人のすることではない残酷な凶行ですが,いとも簡単に実行されているということの背景に,幻の世界を現実の世界であると洗脳している悪意があります。人は五感を通して感じ考え生きていくものですが,見聞きする感覚だけに特化すると,いびつな生き方になるはずです。その食い違いが現実の世界では,事件として表立ってきています。側にいる人が画面の世界にのめり込んでいるのは,異星人のようで気味が悪いものです。
情報社会と言われている中で,情報が多量に流れていますが,どれほど必要な情報があるのかと言えば,ほとんどは不要です。なぜなら,無関係な世界のことは知らなくても一向に困らないからです。日々の行動範囲のことを知り,遠くのことはおよその動きだけを覗いていれば事足ります。例えば,台風の進路予想などが分かっていればいいのです。知ることに忙しくなると,考える暇がなくなります.
考えるというプロセスは,物事の有り様を解釈して摂取する過程です。咀嚼することで知恵の血肉となります。情報の取り過ぎは,馬耳東風という状況をもたらして,何も残らない無駄骨になります。考える時間を十分に確保して,情報の厳選を同時に図ることが望まれます。お楽しみ情報を除けていったら,知っておくべき情報はどれほど残るでしょう。垂れ流される情報に接するのではなく,必要として探し求めていく情報,少なくともそのような接し方が最初の取り組み方でしょう。自分で情報を作り出す,そういう気概を持っていなければ,流されていきます。
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