《急ぎ足 止めたときから 甘い詰め》

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 道路を横切っていく人を眺めていると,渡り方に共通する形があります。渡りはじめは小走りや急ぎ足ですが,7分目ほどに渡り終えると,速度を普通に戻して,ゆっくりと歩いて行きます。渡ったと思うから,渡る行動は終了して,歩く行程に入ったつもりでしょう。でも,現実には,渡り終えてはいません。体は車道上にあるのです。完全に渡りきるまで,急ぎ足で歩き続けた方が無難であることは明白ですが,実際の行動は中途半端であり,いわゆる最後の詰めが甘いということになります。
 詰めが甘いというと,将棋の勝負がつきそうな最後の局面で気を抜き手が狂ったというイメージです。詰めというのは物事の最終段階のことと思われています。妙なことが気になっています。つまり,なにがしかの目的を持った一連の行動の中で,詰めというのはどこからのことを表すのかということです。ここから詰めに入るという一線があるのか,あるとすればどういう線引きなのかということです。そのようなことはあまり考えたことがありませんでした。何となくという線引きで,支障はありませんでした。
 作業について考えると,目的とする製作や仕事をし終えたあとには,道具などの後始末が続きます。この後始末が詰めになるというのであれば,分かりやすいことになります。しかし,後始末という言葉で表現しているように,それは後の始末というものであり,詰めではありません。詰めとは,し終える前にあるのです。それでは,仕事などの最終的な仕上げのことでしょうか。それも違うようです。
 視点を変えてみます。品物を箱に収めるとき,箱と品物の形が異なると,隙間ができてしまいます。そのようなときには,隙間に詰め物をして,固定します。詰め物をしておかないと,不安定になって品物が破損する場合が起こります。そのような状態を,詰めが甘いというのでしょうか? それなら,詰めは本筋とは切り離されることになります。少し違うのではという声が聞こえてきます。
 最初に観測した横断の際に見られる2段階の動き,急ぎ足の物事に集中している時,急ぎ足でなくてもよいという残りがわずかという意識下での動き,その後半が詰めになると考えることができるでしょう。つまり気を抜いたときからが詰めになるので,詰めが甘くなるのは必然ということになります。詰めという隙間を作らないことが大事であると考えておくことにします。

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(2013年12月15日号:No.716)