《文字列に 意味の有無問う のどかさや》

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 通勤途上の車中では,カーラジオから流れる音楽に包まれています。感覚は聴覚が働いています。視覚は前方を中心に前後左右に広がっています。前車と信号が運転上に必須の情報であり,手足の運転動作に直結しています。嗅覚は異変に関わる臭気がない限り,静かに待機しています。味覚は,時々眠気覚ましに口にするキャンデーに捕まっています。触覚は空調の風に同期して,乗車直後は冷気状態に抵抗し暖気を待ちわびています。
 運転中はそれなりに感覚が働いてくれていますが,いつもの道をいつもの時間に走るときは,慣れという自動運転が発動し,少しばかり暇になります。信号待ちの時は,停止しているので,辺りをきょろつくこともあります。ただ,見慣れた風景の中では,感覚が働きません。いわゆる退屈する状況に突入します。朝の通勤の渋滞では長い時間になります。そこで最近は,視野の中に入る車のナンバープレートに目を向けています。きりのよい番号を探しているということではなく,ナンバーの前にあるひらがなに着目します。
 視野に3台の車があれば,それぞれのプレートのひらがなを読み取り,「○△□」という3文字にまとめます。あるとき何となく始めたことです。ところが,意味がないことを思い知らされました。その行為の意味ではなく,目にした文字の並びから意味が届かないのです。例えば,きまあ,ひせと,といった具合です。順序を入れ替えたり、濁点にしたりしても,意味が現れてきません。国語事典にある言葉をすべて覚えているわけではないので,意味があるのに分かっていないということがあるのかもしれません。
 意味のある文字列に出会うことが滅多にありません。ということで,言葉というのは意外に少ないのではないかという気がしています。通勤の途中で目に入る車の登録ナンバーのひらがなを並べていて,意味のある言葉が出てきたら,いいことがあるような予兆と思うことにしています。なんの根拠もありませんが,滅多に完成しないことを運試しに使うという例に倣うことにしています。暇つぶしに過ぎないのですが,それにも意味を求めてしまうのは,なぜなのでしょう?

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(2014年02月09日号:No.724)