《完全は ないと認めて 補いを》

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 ある組織の総会で提示する宣言文の草稿を書くことになりました。前文では広く社会の実状を見て問題を指摘する我田引水の手法を用います。後段で述べることになる具体的な活動の必要性を論理的に導かなければ一貫した文章にならないからです。世の中に悪があるから正義の行動をしなければならない,お腹が空いたから食べなければならないという論法です。人の行動は理由が必要なのです。理由は後からなんとでも付けられる,その事実があるとしても,理由は先にあるべきものという形式が文章を整えることになります。
 現在社会の有り様は「民主主義」に依拠しています。その実現方策として「多数決」の手続が採用されています。採用上の了解をする論拠は「最大多数の最大幸福」です。ほとんどの人に幸福をもたらすという約束は,ほとんどの人が了解できるものです。誰しも,自分はほとんどの人の中にいると思っているからです。ところで,最大多数という限定付きであるということは,全ての人とは言えないという実現上の制限を認めざるを得ないということです。すなわち,最小少数の最小幸福の可能性が想定されています。少数のことはとりあえず脇に置いておくということであり,やがて忘れられて切り捨てとなります。現在社会には少数派が不遇に押し込まれているという課題があるということになります。
 多数派が願うこと,考えること,すること,決めることが総意として有効になります。総意を正しいこととして認めているうちに,少数派の意思は総意に逆らうことになるために,間違いと見做されていきます。多数の横暴が始まります。皆がしているから,皆が言っているから,その言葉によって,個々の思いは押しつぶされます。この思考パターンに馴染んでしまうと,その応用として,人の多少から外れて,経験や機会の多少に対しても多い方に判断が引きずられていきます。いつもそうしているから,という物差しが当てられます。あの人はいつもあのようなことをするから,いい人だとかわるい人だとか,判断するようになっていきます。
 宣言文の構成は,以上のように多数決の手法が次善の策であるということを再確認した上で,少数派に対して意図的に寄り添う姿勢が必要であると訴え,したがって,われわれはこれこれの活動に取り組む責務があるという流れに続きます。一つの組織の活動は,社会的になすべきものであるという我田引水を施していなければ,認知されません。世の中を動かせるほどの大した活動などできるはずもないのですが,掲げる旗印は身の程知らずでも,方向が大義名分に添うなら許されるようです。皆がそうしていますから。

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(2014年03月30日号:No.731)