家庭の窓
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テレビコマーシャルの中で言われる台詞に,ときどき,面白いと思うものがあります。最近では,女の子が言う「赤ちゃん止めました」,おじさんが叫ぶ「野菜は皿か」です。赤ちゃんぶって甘えていた女の子が,都合が悪くなって,転身するという身勝手さに,クスッとさせられます。
もう一方は,弁当の肉の下に敷かれるレタスが取り残されるのを,おじさんが嘆いている叫びが,ちょっぴりグサッと聞こえてしまいます。人間の至らなさを,幼い故に自ら露呈する局面と,見かねてつい指弾してしまう局面,期せずして自他の対比になっているのも偶然ですが,面白いことです。
小さな不始末を指摘されてテレビカメラの前で泣きわめいたどこぞの県議が,辞表を提出し受理されたようです。県議という立場を何様のように思っているのでしょう。税金の使用状況報告が小さなことという認識しか持ち合わせていなくて,大人としての至らなさを露呈して,「県議止めました」と言い抜けます。ところで,「総理止めました」となった野田議員は,どうしているのでしょう?
刺身のつまはクッションか,と言うこともできるでしょうか。本棚を見れば,百科事典は飾りか,と言われていました。罵声の一つに,頭は帽子の台か,というのもありました。発揮されるべき機能が見捨てられている状況は,人の至らなさです。宝の持ち腐れという言葉が戒めていた状態を,人はいつまでも受け継いでいきます。逆に考えると,そのような言葉があるということは,治らないという保証になっています。
人の振り見て我が振り直せ,といわれます。自分の至らない状況は,自分には見えないということです。だから,人から叱られ注意されることになります。そのような他人の至らなさを見て,自分の至らなさに気付くしかないようです。誰かが至らなさを見せてくれるから,その目撃者は至らなさを封印することができることになります。
他人の至らなさをあざ笑って済ますのではなく,自分にも同じ至らなさが秘められているとして学ばなければなりません。他山の石という言葉もありました。
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