《子どもたち 同年世界 危うさが》

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 佐世保市で起きた女子高生殺害事件は,同級生によるものであり,その動機として「人を殺してみたかった」と供述しているそうです。すれ違いなどがこじれてトラブルになり,不利な方が気持ちの収まりが付かず「殺してやる」と口走ることがあるとは想像できます。でも,普通は思うだけで実行はされません。大きな歯止めがかかっているからです。それでもごくまれに抑えが効かなくなったとき,つい手を出して命を奪ってしまうことになることもあり得ます。「殺すつもりはなかった」という言い訳が空しいだけです。
 女子高生の場合は,事前に道具を購入して準備をしていたようで,実行に向けて淡々と進んでいたようです。被害者に対する悪感情はなく,仲良しであったということで,怒りにまかせた激情にかられた凶行ではありません。さらには,仲良しの子に手をかけるという気持ちのゆがみも全く理解不能です。被害に遭った高校生は,理不尽な運命が無念であったはずです。冥福を祈るばかりです。それにしても,高校生になっても,他者の思いを斟酌できない幼稚さは,どういうことでしょう。
 佐世保市では,ちょうど10年前に,小学6年生の女児による同級生殺害という事件がありました。それ以後,小中学校では命の尊さを学ぶ取組を行ってきました。その教育を受けてきたはずの女子高生が,内容は違うにしても,同じ形の事件を繰り返すというのはどういうことなのか,考えさせられます。二つの事件に共通する同級生ということに拘る形があるとするのなら,子どもたちの人間環境が同級生世界に偏在化しているということの意味を再確認しておかなければなりません。良くも悪くも関わりのある人間が同級生しか存在していないという状況になっているのです。
 同級生世界に閉じ込められていると,情報は限定的であり,思考は本人が気がつかないうちにゆがんでいきます。よどんだ水が悪臭を発するのと同じです。人に対してしてはいけないことをしたときに,周りからの経験の差から発する制動力が働くのが普通の社会ですが,同級生社会では,してもいいみたいという歯止めを外す雰囲気があって,さらにはもっとしてもいいかなと増幅する作用さえ働きます。小さい悪さは面白いと感じる危うさが野放しになります。冗談にも程があるというけじめは,年長のものでなければ示唆できません。
 女子高生を診察した医師が,「このままでは事件を起こしてしまう可能性がある」と両親に伝え,なおかつ県の児童相談窓口にも電話して,「人を殺しかねない」と相談していたことが報道されています。大人の感性は,このままでは危ういという状況を認識できています。この女子高生を大人がいる世界に引き込んでやることができていれば,事件に至らなかったかもしれません。もちろんこのことは後の祭りではあるのですが,繰り返さないことが,被害者へのせめてもの鎮魂になると思わざるを得ません。

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(2014年08月03日号:No.749)