《そうそうと うなずきながら 本を閉じ》

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 本を読んでいると,ふっと引き込まれる言葉に出会います。「そうだ」。記憶している程の以前,会話の中で生まれ出た疑問があり,その場でそれなりの持論を展開していたのですが,その場にすんなりとつながる言葉に出会ったのです。「そうですよね」。ほんの立ち話であったことが,大きなテーマのカケラであったと気付かされたのです。
 人は神にはなれないと思っています。当たり前のことでしょうが,時折,何でもお見通しという言説に出会うことがあり,待てよという眉唾気分になります。人は物事を考える道具として言葉を使います。その言葉は人が作り出したものです。言葉が完全なものとして存在していたのではありません。ということは,言葉は人の思考を越えることはできないということです。そういう下地の上に,「言葉の意味に解答はない。木=「き」と読む理由は無い。「か」でも,「け」でもいい」という趣旨の文章に出会ったのです。
 事実の意味を理解することが大事ですが,同時に大枠の理解がなければ,意味は霧散することでしょう。言葉で表すことができると物事の意味を理解できますが,その言葉の意味は曖昧なことが普通です。人と出会えばあいさつをします。しかし,何故あいさつをするのか,その理由は曖昧です。普通には小難しいことは考えるのが面倒なので,「そんなもの」ということで済ませているはずです。子どもの「何故?」の質問の連続に窮するのは,ごく当たり前なのです。
 科学的考察といえば,何故を追求することです。ひとつずつ何故が解き明かされていくのが,発明であり発見です。しかし,何故が終わりを迎えることはありません。昔は,何故の吸収体として神が置かれていました。神の営みから事は始まったとして,神の意志を受け入れるという謙虚さをしつけられていました。何故神がいるのか,という疑問はあり得なかったのでしょう。
 科学的推論の下地である数学では,始まりは公理です。証明するものではなく,受け入れるものです。もちろん,定理は公理を使って証明されなければなりません。ユークリッド幾何学では,2点間の最短距離は直線という公理があります。何故なのかということは証明できません。そうと認めなければ,別の数学体系を作ることになります。
 論理的な考察では,使用する言葉はきちんと定義されています。いわゆる,業界用語や専門用語という言葉は,曖昧さをそぎ落とした言葉です。その言葉を認めたところから,考察が開始することになります。数を数えるとき,1,2,3,・・・と進みますが,最初は1です。では何をもって1とするのか,絶対的に決まってはいません。西暦元年はキリストの生誕で人為的に決めているだけです。認めなければ,別の体系の暦になるはずです。
 一つの言葉に出会って,触発されて迷い道に踏み込んでいるようです。手前味噌は停止して,本の続きがどのように展開していくのか,楽しむことにしましょう。

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(2014年08月17日号:No.751)