《住む世界 違っていても 同じひと》

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 今年から新しい領域に踏み込むことになっています。首長に頼まれて引き受けたのですが,その訳は全くの異世界に関わることの期待でした。分からないことを不安に思う感性が鈍いせいで,来るもの拒まずという呑気な質です。いわゆる世過ぎの領域は物理という極めて特殊な分野であったので,今度の福祉という分野は全くの異世界です。基礎情報が重なることはなく,徒手空拳で挑むことになります。
 1から始めるということを言いますが,今の場合は0から始めるということになります。さらには,新人として仕事を覚えていくという順を踏んだ転機ではなく,トップとしての役割が課せられています。何も知らないよそ者がいきなりトップに入り込んでいくというのは,尋常ではありません。それを受け入れてくれていることに感謝するばかりです。
 ところで,そんな無茶がよくできるなと,我ながら呆れることもないではありません。でも,どこかで,なんとかなるという思い上がりもあります。関わらざるを得ない周りの方には傍迷惑ですが,組織体のリフレッシュには異世界の分子が最高の刺激になるはずです。トップが変われば組織も変わるという期待は,実業世界ではよく見られることです。だからといって,世の常に倣って,大層なことをしでかそうという自負を抱いているのではありません。そういう思い上がりは無縁です。
 人の世を理系と文系に分けることがあります。全くの逆の世界というイメージがあります。したがって,一方で通用する思考や技量は,他方では無用の長物に,かえって邪魔になるというふうに思われています。しかしながら,人のすること,できることに違いはありません。頭と手を使うということでは,同じです。見た目に違いがあるにしても,考え方や手法は通用するはずです。
 細部の具体は違いますが,その目的や意義に叶うかどうかという判断は,人の世界のこととして,すべて共通になります。理系と文系の世界を渡り歩いてきた経験から,どこにいても考え方の修正は必要ではありませんでした。ときには,意見を異にすることがあります。大事な核心に関することではなくて,ほとんど好みに関することです。
 例えば,文系の考え方は,あれもこれもあらゆるものを包み込んでいこうとします。一方で理系の考え方は,前提・条件を整えて,なるべく切り捨てて選び出していこうとします。今できることはこれだと選ぶのです。それ以外のことは後回しにします。文系は話が広がっていき,理系は話を切り詰めていくという向きの違いがあります。また,感じを元に話すか,データを元に話すかという差もあります。
 どちらが優れているということではなく,考え方の多様性があれば,組織活動は安定するはずです。そういう意味で,文系の世界に理系の声が入る価値があるのです。

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(2014年08月31日号:No.753)