《あちら立て こちらも立てて 納まらず》

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 「ブータンではカもハエも殺さない。しかしウシもヤクも食べる。人間とはそういうもので,その辺の釣り合いが面白い」。
 そういう文章に出会いました。鶏肉をかしわと言いくるめて食べていますが,一方で鶴や朱鷺は保護されます。鶏に産まれる不運を,どう考えればいいのでしょうか? 人は生き物の命を頂いて生きているのであり,そのことに感謝していただきますと言います。そこで思考を留め置くしかないのでしょうか?
 弱肉強食,食物の連鎖という自然界の掟は,数学の公理のように,問うものではなく受け入れるものです。弱い立場にある小魚は,たくさんの卵からわずかな成魚の存命を前提にして生きています。一方で,捕食者である立場には,ライオンのように獲物を捕らえる苦労を課せられています。自然は個の命を犠牲にして,種の命を永らえることを選んでいるように見えます。そうであるなら,種の絶滅をもたらすことは,自然への冒涜ということになります。
 飼い犬を看取った人もいるでしょう。かわいがった動物の命は,見ず知らずの動物の命とは違うものです。昔は鶏も家で飼っていて,放し飼いにしていました。あるとき,その鶏が食卓に上がってきます。感受性の敏感な子どもであれば,とても絶えられないことかもしれません。それが当たり前という中では,普通の経験にしかなりません。ウシや豚の世話をしている方は,慣れという免疫によって,仕事という思いを被せているのでしょうか。
 狭い敷地の隅々に青々と草木が伸び放題です。雨と太陽の恵みを受けて,すくすくと成長しています。でも,草ボウボウというのは,暮らしの表情として,いささか具合が悪いという意識もあります。どこかで思い切って,刈り取ることになります。その際に,これは抜く,これは伸ばすという非情な選択がなされます。残してやりたいのですが,連れ合いの厳しいチェックを通らないので仕方ありません。
 身近にいる蜘蛛やトカゲなどは見過ごしています。蜘蛛の巣の邪魔なものは除きますが,そうでない限りは好きにさせています。ところで,カやハエ,ゴキブリは,見かけたら追いかけ回して殺生に至ります。これらは害虫という類別であり,見てしまうと本能的に嫌悪感が湧いてきて,退治行動が発動します。このときには一向に後味の悪さがないのは,非情なのでしょうか? 人は勝手なものです。
 どのように一貫性をもたせばいいのか分からない不安定さは,面白いと言うしかないのかもしれません。
 

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(2014年09月07日号:No.754)