《経験が 無ければ言葉 見つからず》

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 言葉にならない,言語に絶する,えも言われぬ,筆舌に尽くしがたい,それぞれ言語の限界を言い表しています。それは話し手の言語が貧困であるということであるのか,それとも言葉が存在していないということなのか,聴き手はどちらの意味を受け取っているのでしょう?
 名もない雑草という表現を先の天皇が否定されたという話を読んだことがあります。知らないだけで,名はあるというご指摘でした。確かに人の周りに生えている植物には名前があるでしょう。しかし,人里離れた場にある草はどうでしょうか。名前は人が付けるものであると考えると,人との遭遇をしていない草は,名が与えられないはずです。さらに,生物の特質として,環境に適応する変化を想定すると,種は同じでも異なった草となることも起こり得ます。未だ見つかっていない草もあるはずです。
 森羅万象と言いつつ多様な自然界をイメージすると,人が出会っていない事物の世界があるはずです。それだけが言葉の対象ではありません。実体のない現象や抽象的な事柄,人の感情など,表現の対象には歯止めがありません。名付けの言葉は追いつけないはずです。かろうじて,○○のような,という類似性や例えという苦肉の表現法が用いられます。
 言葉数が足りないのでは,という面はどうなのでしょう。ひらがな48文字の組合せは何通りあるのか計算できますが,その必要はありません。例えば,文字を組み合わせてみましょう。ああ,あい,あう,あえ,あお,あか,あき,あく,あけ,あこ,あさ,あし,あす,あせ,あお,あた,あち,あつ,あて,あと,あな,あに,あぬ,あね,あの,あは,あひ,あふ,あへ,あほ,あま,あみ,あむ,あめ,あも,あら,あり,ある,あれ,あろ,あわ,あん。意味が見当たらない組合せがあります。つまり,未使用の組み合わせがあるということは,文字表現の限界ではないということです。
 表現がないということには,表現する必要が無いということもあります。例えば,高い,低いのような比較の言葉は,ある普通の基準を想定して違いを言い表しています。普通のことは表現する必要が無いのです。無理に言おうとすれば,高からず低からずという言い方しかできません。暑くも寒くもないちょうどいい季節,何とも中途半端な表現です。表現とは違いを定義する手段であると考えると,違いが無いものごとは表現する意味が無くなります。
 経験したことがない雨,そういう表現が聞こえてきます。経験したことがないから,表現する言葉がありません。経験したことがない雨を何度か経験していくと,やがて,言葉ができるのでしょう。言葉も,環境に適応して変貌していくもののようです。

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(2014年09月14日号:No.755)