《つまらない 微かな声に 明日を聞く》

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 頭上を飛行機が飛んでいきます。雲の彼方に音が吸い込まれているので,離陸したようです。日常的なことなので普段は聞こえていませんが,聞き耳を立てているときはうるさいと感じます。
 NHK番組で音についての講座が放映されています。その中で音の聴き方という話題がありました。最近,人が近くて大きな音を聞いている特徴があるそうです。昔は遠くて小さな音を聞いていたらしいのです。聞の字は神の啓示を聞くことを表し,聴の字はつくりにある四が目を表し心を沿えて意味を聞くことだそうです。ともに微かな徴候を聞くことです。因みに恥じる心は耳に現れるので,耳偏になっています。
 確かに風俗としてイヤホーンを耳に直結していますし,電話も音源と耳が接触します。空間を伝わってくる音ではありません。音としてのエネルギーが小さいためにそうせざるを得ない状況ではあるのですが,同時にほかの音をカットしてしまいます。それが危険回避に支障を来す場合も考えられます。
 音楽の録音再生にCDが定番になりましたが,ディジタル処理はクリアな音,ひずみのない音といった特質が喧伝されています。どうも混じりっけのない蒸留水の無味無臭性と同質に思えて,味わいの浅さを感じます。
 技術・科学の世界では純粋さが必須なのですが,人が暮らしている俗世間ではかえって有害になります。混じりっけが不可欠だからです。人は混沌の世界に生きていくように設計されているからです。
 余計なもの,無駄なものを排除することが進歩だと早とちりして,大切なものをうっかり捨ててしまったようです。今になって求めているゆとりとは無駄だと思われていたものに備わっていました。文化も本来余計なものでした。無くてもさしあたって困ることはないものです。
 近場のクリアなイメージだけを追っていると感受性が鈍ってきます。遠くにあって微かにしか認知できないものの意味を読もうと感性を研ぎ澄ますことを忘れています。雑多な音の中から意味のある情報を紡ぎ出すことが知覚作用です。近くて大きな音だけに反応していると単純な知覚,単純な知的活動に退化するような気がします。
 知的活動の特徴はあらゆる面に関わっています。例えば,人付き合いが苦手に思えるのは,人の心といった曖昧なものを検知し判断できないせいでしょう。交わされる言葉だけに頼るのではなく,言葉の調子,声の調子や強弱,TPOに関する情報から相手の真意を推察できることがあります。音の世界に住んでいる自分を聞いてみるのも一興です。気配を察しましょう。

(2001年09月16日号:No.76)