《人のせぬ 汚れ仕事に 夢を追う》

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 月に一回の不燃物の回収日には,集積場がいっぱいになります。不燃物を出し続けるような生活パターンがごく当たり前になっています。こう書いてくると,次の文章はおよそ察しがつかれることでしょう。「豊かさとは無駄遣いなりと勘違いしているよ」と世間を批判した物言いをしたくなります。
 夢追い酒という演歌があります。作詞をされた方が話していましたが,「あなた,なぜなぜ,私を捨てた」という歌詞が集積された廃品を見たときに浮かんできて,それが基になってあの演歌ができたそうです。モノとしての寿命はまだあるのに,不用とリストラされる悲しさが心に響いたのでしょう。
 演歌は嘆きでいいのですが,嘆いているばかりでは前に進みません。人はそれほど捨てたものではありません。十分に賢いのです。無駄遣いに気がついて反省し,リサイクルという一歩進んだ方策を考え出しました。ところが,そこでまた人の弱さが現れてきました。リサイクルを知ってはいても自分の行動につながらないのです。行政や責任のある他人がすること,と高見の評論をするだけです。
 回収日になると自転車やリヤカーを引いた人が集積場に現れます。捨てられた回収袋を開いてアルミ缶を選り分けています。それを見ていた方が眉をひそめて話しかけてきます。「いやね,どうにかできないの」と,暗に禁止措置を期待しているようです。隣組の組長への進言のつもりでしょう。
 手間の掛かる汚れ仕事はしたくない,その思いが強いと汚れ仕事をしている人になんとなく胡散臭さを見ようとしがちです。「あなたが捨てたモノはまだ価値があります」と言わんばかりに見せつけられれば,非難されているような後ろめたさを感じさせられます。そこから逃れるためには「あれは怪しげである」と切り捨てるしかないのでしょう。もっと意地悪に考えれば,自分が無価値と捨てたモノで他人がなにがしかでも得しているのを見ると業腹なのかもしれません。
 廃品を選別している人と世間話をしたことがあります。話しながらその作業を見ていると,アルミ缶以外に,未使用のままに捨てられているモノなどをピックアップしています。選り分けたあとはきちんと整理をしています。無造作に放り込まれた袋を並べていきます。その人はそれが仁義だと話してくれました。もちろん,選別作業を効率よくしようとすれば,そうせざるを得ないのです。
 仏教で喜捨するという行為があります。捨てたものを他人がどう扱おうが頓着しない,入り用なら自由にしてくださいということです。リサイクルに欲得ずくであっても関わる人がいてくれると思えば,お互いにとって都合のいいことなのです。

(2001年09月30日号:No.78)