《本当の 私の体 日々移りゆく》

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 ディスプレーを見ていて疲れると視線を少し横に動かします。ガラスの外の景色が目に飛び込んできます・・・のはずですが,大きな葉っぱが迫っていて,風景は閉ざされています。確かに冬の時期は,ガラスの外には棒が数本立っているだけの,スカスカの視野の奥に道と家並みが見えていました。夏になると,うちわほどの大きさの葉っぱがびっしりと広がって緑のシャッタが降りています。
 連れ合いにいわせると日除けになるそうです。冬になると勝手に葉を落として,夏になると勝手に葉を茂らせる,とても便利なのです。ガラス越しに緑の色が視野に広がるというのは,林の中での体験のようですが,ちょっと近すぎるのが気になります。
 ところで,ほんの数ヶ月の間に,たくさんの葉を作り出す力には驚きます。材料はどこから? 誰が作っているのか? 設計図はどこにあったのか? 作業の段取りはどこから発せられているのか? たった1本の植物が,とてつもない力を持っていることに感嘆します。土の中から必要な原料を吸い上げ,太陽のエネルギーを取り込んでいるということは想像しますが,その仕組みは見えては来ません。
 人にも同じような力があればいいのに,手を失っても再生できたり,臓器の入れ替わりができたりしたら,とうらやみたくなります。でも,実は人も食物を摂取することにより,新しく入れ替わり続けているのだそうです。切り傷が治るということを思い出せば,思い当たるはずです。体を構成している原子を考えると,数年で入れ替わっていくということです。生まれたとき持っていた原子を高齢になるまでそのまま持ち続けるのではないのです。
 膨大な数の原子を取り込んで人はできていますが,原子は入れ替わって流動しています。この体の中の一部に取り込まれている原子が,もしかしたらかつては歴史的人物の一部であったものかもしれません。胸のここにある原子はかつては源義経のすねにあったものである,といったことがあるかもしれません。牛肉や豚肉を食べているということは,牛の中にあった原子が今の体の一部に組み込まれていることになります。自然界はつながっているのです。
 もし地球上の原子数が一定だとすれば,地球上の人口が昔に比べて増えている分だけ,植物や動物,大地や水などが減っていることになります。普段はそんなことなど思いもしませんが,理屈でいえば,そういうことになります。だからどうということはないのですが,資源の限界という考察をする際には,人自身も含めなければならないということです。

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(2015年06月14日号:No.794)