家庭の窓
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昼食の際に耳に飛び込んできた我が町名,テレビのニュース番組です。飲酒運転で警部補が逮捕されたという報道です。高校生2人が飲酒運転の犠牲になって,町をあげて飲酒運転撲滅を進めている町での事件です。よりによってという思いと同時に,してはならない人がするという情けなさにあきれてしまいます。知人を送っている途中ということのようですが,そのことを聞いた連れ合いが,そんな車に乗ることがおかしいという感想を聞かせてくれます。
自分のことは自分では分からないという大人の経験を持ち合わせていないことはないでしょうが,自分に当てはめる勇気が発揮できないのでしょう。自分は大丈夫という過信がなければ不安に負けてしまうのかもしれません。自分には至らないところ,弱いところがあると認めることが勇気です。自分を知るからこそ,無茶をしなくなります。昔から,天知る地知る己知るといわれてきましたが,己が知るのは最後であり,その境地に到達することが至難であることを示していると読むこともできます。
小学校の体育館と接する歩道との間に設けられた金網のコンクリート土台に,飲料用の小さな空き瓶がぽつんとのせられています。飲み終わって用がなくなった空き瓶を,放り出すのは憚られ,つい手近の塀の上に置き捨てたのでしょう。始末ができる場所まで持って行く手間を惜しんでいますが,その手間は誰かが引き受けなければなりません。どこの誰とも分からない人に余計な手間を押しつけて平気な性根が端迷惑です。人の迷惑を慮る力がなければ,周りからは社会に甘える放蕩者と思われているはずです。
人の振り見て我が振り直せ,といわれます。主として他人の恥ずかしい振る舞いを見ることで,自らの振る舞いを改めるきっかけになるということです。その点では,世の中に恥ずかしい振る舞いをする人が必要になり,反面教師の存在が認知されるのでしょう。ただ,恥ずかしい振る舞いは実際に起こらなくても,話として,物語の中で,事例という知識にすることも可能です。子どものおとぎ話や大人の小説などの形であっても十分に振りを直す縁にはなるはずです。
必要悪といういい加減さがあります。一方で安全神話という願いもあります。あってはならない悪も必要な場合がある,あるべき安全も神話と同じほどの確度である,そういう冷徹さが現実の判断の仕方です。あきらめと願いの間で,ひとは必死に前向きになろうと努力をしています。そのひたむきさを共有できるとき,人はお互いを大切にすることができると信じるようになります。そのためにも,自らの至らなさに向き合わなけれなりません。早く気がついてほしいものです。
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