家庭の窓
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「岩手中2自殺」という言葉が新聞やテレビモニターに頻繁に現れています。いじめに追い詰められて,自分の居場所を見失って,自分の存在に対する確信が萎縮して,ぬくもりを閉ざす冷たい壁を押しつけられて,明るい希望など思いもよらない,そういう状況に閉じ込められて,自分をご破算にするように仕向けられているような錯覚にとらわれたのでしょうか? 13歳の少年の心情をどのように推し量ればいいのか,戸惑うしかありません。
つらい淵に引きずり込まれそうなときは,得体の知れない恐れが迫ってくるときは,あっさりと負けて逃げ出すことです。三十六計逃げるにしかず,といわれていることを思い出すのです。嫌な場から距離を置くと,いっぱいいっぱいの気持ちに隙間ができます。たとえば,目の前を覆っている大きな板でも,離れてみると小さな板に見えるようになります。間近にある苦しみは,離れることで些細なものに思われます。逃げることは離れることです。離れると,つらさが小さくなって,気が楽になります。
その逃げ場が身近なところに見当たらないのでしょう。学校と家庭の二つを往復している子どもたちは,第3の場所であった地域を失っています。居場所を失って辛い目に遭っている子どもに逃げなさいと言ったとしても,どこに逃げればいいのという問い返しがあるはずです。居場所のほかに,避難所,待避所,隠れ家がなければなりません。その役を果たすのが,地域の大人の懐です。不安の中にいる子どもにまず必要なことは,安心という時と場です。そこで冷静な思慮を引き出す気力が回復してくるのです。
中学生と担任の間で交わされていた生活記録ノートの一部が公開されています。ざっと目を通すと,両者の言葉がすれ違っているような第1印象でした。「もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」という中学生の書き込みに,「明日からの研修たのしみましょうね」と担任の先生は答えています。自分が追い詰められていることを訴えたいと思って書いてはみたものの,先生に言ったところでどうにもならないと思い直して,まあいいかと自分の気持ちを封印しようとしてしているようです。担任は,中学生の言いかけてやめたことを尊重して聞かなかった風に対応し,気分転換を勧めるために研修を楽しむという明るさを届けようとしたのでしょう。
若い人たちは,言葉の流れが表す気持ちの動きを受け止めることに敏感ですが,言葉が伝えてくる気持ちそのものには鈍感です。いじめの場での言葉の扱い方でも,「死ね」という言葉を投げつけることでちょっとした拒否感を示すつもりですが,言われた方は死ねという言葉の重さを受け止めることになります。同じ言葉でも,言った気持ちと聞いた気持ちに雲泥の差が生じるとき,いじめとなります。情報社会の中で大量の言葉が流れていく状況では,一つ一つの言葉の意味を捕まえてはいられません。会話は不完全になります。
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