家庭の窓
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捨てる神あれば拾う神ありと言われてきましたが,拾う神はなかなか現れてはくれません。ということは,大部分の神様は捨てる神で,拾う神様はわずかしかいらっしゃらないということでしょうか? それなら神頼みをしてもほとんど無駄なことになります。それとも拾っていただくためには何かの要件があるのでしょうか? 例えば,お賽銭の下限があったり,あるいはおとぎ話が教えるように正直さの程度が秤にかけられたりするのでしょうか?
地獄の沙汰も金次第とか,三途の川の渡し賃など,結構お金がものをいうようですが,一方で神様の世界ではお金は使われていないのかもしれません。それなら,5円をご縁に見立ててみても,神様には通用しません。神様になると欲はないのでしょうから,賄は無駄のようです。付け入るとすれば貧乏神あたりがいいのかもしれませんが,賄賂を差し出しても立ち去ってくれるだけで,ご利益の方はあまり期待できそうもありません。
何とも罰当たりなことを考えていますが,こんなさもしい根性を持ちながら,拾ってくれと宝くじとかいうお札の運を願うのが庶民です。参加しなければ当たらないという原則にすがっていますが,確率の原理に従えば無駄なことです。9分9厘ダメとは昔から物事を諦める基準でしたが,それ以下なのですから,ひどく往生際が悪いと言われそうです。
人が賢くなったことの一つは,数量化するための指標を考え出したことです。暑いとか寒いとか言っても,その程度は個人差があります。それを温度という指標で数量化すれば,普遍的になります。物々交換から物流が拡大できたのは,お金という指標で価格として個別に数量化できたからです。ものごとには定量性があって意味が出てくると考えて,社会は発展してきました。
ところがものの価値が価格という数量によって表される便利さに慣れすぎて,あらゆるものを価格表示しようという誘惑が強まってきました。誠意を見せろという恐い要求も,お金への換算です。愛していると言っても,どれくらい愛しているか分かりませんので,プレゼントの指輪やバックの価格表示されます。時代を担う子どもが欲しいものは,とりあえずお金だそうです。命の次に大切なものを差し出すことが熱意や願望の程度を表すと見なして,賄賂を受け取る輩も現れています。
ものの豊かさに浸っている限り,価格という価値が跋扈します。どこか違うなと感じていても,違う指標が見つかりません。でもそれでいいのです。数量化された思いやりなど意味が無くなるからです。大切なものはお金では買えないものだと信じていたいものです。
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