《手拍子で 皆の気持ちが 結ばれる》

  Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 どちらかというと歌うことが好きな方なのですが,人様に聞かせるというのではなく,ただ一人でぼんやりしているときに歌を口ずさむのが好きなだけです。かつて母が口ずさんでいるのを聞いて何となく覚えてしまった古い歌を,思い出しながら風呂場の音響効果の中で歌ったりすることもあります。
 祝いや節目の集まりには宴会がつき物です。座が後半にはいるとカラオケ時間に入ることがあります。誰かが歌っているとき,知っている歌なら小声で唱和します。知らない歌だったら口まねをして覚えようとします。一緒に楽しむという習性が身に付いているのでしょう。ところが,周りの人は誰も聞いていません。自分の曲探しに没頭しているか,隣の人と談笑しているかです。そのざわめきの中に歌声は埋もれています。
 人が歌っているときは楽しく聞いてあげることがエチケットと思うのは,大勢としては間違っているようです。わざとシカトしている積もりはないのでしょうが,勝手に歌っていれば,という無関心とも見えてしまいます。それでも歌い終わると,申し訳程度に拍手が添えられるのは,何なのでしょう。ご苦労さんというねぎらいでしょうか?
 カラオケは歌のない伴奏です。歌があれば,それできれいにまとまります。少々調子が外れても,迫力のある伴奏がぐいぐいと曲を盛り上げ最後まで一気にひた走ります。歌が付いていくといった感じで,聞く方は歌を聴くというより,曲を聴かされるという受け取り方になります。同時に歌っている方は,曲に酔ってしまいます。聞かせるのではなく,カラオケに歌わせられているということです。
 カラオケがなかった頃は,誰かが歌うと皆が手拍子を打って伴奏しました。歌う人を手伝って盛り上げることで,座が一つになりました。ですから,順番に歌っていたものです。カラオケは手拍子という伴奏で参加する機会を奪ったようですが,もう一つ失ったものがあります。それは,順番に歌う機会が巡ってくることで,皆の前で何か話をするチャンスがあったということです。皆を相手に一通り話し終えたら,次の人へのバトンタッチの意味で十八番の披露という段取りでした。
 最近の集まりを見ていると,皆で言葉を共有するという広い言葉づかいが廃れてしまったようです。皆で楽しむということを忘れて,近場の人としか話せないようなら,ことさら集まることはないでしょうに! 集まってもバラバラなのですから。言葉づかいが小さくなってしまいました。話したいことがあっても,席を巡って一人ひとりに言ってまわらなければなりません。手拍子の方が温かかったと思い出しています。

(2001年10月21日号:No.81)