《仕合わせは 心静かな 数日を》

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 お盆の入りの朝,隣県まで高速道を利用してのお墓参りです。1時間ほどで,ひなびた町の小さな菩提寺に着きます。本堂の真正面に位置するお墓を掃除して,花を供え,ろうそくを灯し,線香を焚いて,お参りをします。その後,本堂に入り,位牌所の前にお供え物をして,ご住職にご挨拶です。ご無沙汰をお詫びし,お互いの元気を確かめて,諸手続を済ませながらの談笑です。いつもの流れを淡々と過ごしていきます。
 田舎の小さなお寺で檀家も少なく,地元の方が多いので,訪問に混み合うことはありません。ニュース番組ではお墓参りに車の列ができて、警備員さんが交通整理をしている映像が流れていました。どこのお寺かと思えば,大きな霊園でした。大変だなと思いながら,こちらは高速道の混雑をかいくぐることになるので,似たようなものかと気がついて苦笑です。夕方には,食事のお供えをしてから,迎え火を焚いて,お出迎えです。仏様は混雑することはないのかな,と余計なことを考えたりします。
 お盆の間は、いわゆる仕事はお休みです。のんびり過ごせると思っていたのですが,家の行事ということで忙しい時間を追いかけることになりました。特別の日ということで,連れ合いの指図に従っているうちに,あっという間に休みは終わりました。送り火を焚きながら,心静かに過ごされたか案じながら,お見送りをしました。
 お盆休みだからとバカンスに出かけることはなくなりました。静かにお盆を過ごすために休みがあるということです。行楽という世情が見えてくるとき,心を向けるべき対象をないがしろにしているから,社会の有り様がおかしくなっているのでは思うこともあります。旧い習慣として遠ざけていくのはあるとして,そこに新しい習慣を補わなければ,心に空隙が残されます。そこにアクのようなものが貯まってくると,心の濁りとしてこびりついていき,意識しないままに道を踏みはずような羽目に陥ることでしょう。
 お盆やお正月は,自分の命に向き合い,命の素晴らしさと儚さを心に刻みつけるためにこそ、共に過ごすということの意味があります。命に向き合って3日を過ごす,その後に訪れる平穏な気持ちを感じる,わずかに残されている慣習を大切にしたいものです。

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(2015年08月16日号:No.803)