《仕合わせは 耳を澄ませば 人の声》

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 朝起きて,雨戸を開けると,目の前に迫る木の枝をたどるように見ていきます。蝉が静かに止まっているからです。お盆を過ぎると,なかなか見つかりません。たまにひっそりとした姿が青空に浮かび上がります。わずかに見上げるような位置関係にあるので,樹木を透かした背景が空になるからです。気がつけばすっかり蝉の鳴き声も聞こえてこなくなりました。季節も着実に終わっていくという風情です。ぼんやりとしていると,不意に連想のスパークが飛び火して,思いがけないことに気がつきました。最後の蝉です。
 一夏限りの成虫の蝉は,地上に出て夏を迎え,雌雄が出合い,命を結び,慌ただしく生を終えていきます。地上に出てくるときが蝉同士でそれぞれにずれていますが,その中でいわゆる時機を失してしまう蝉もいるはずです。地上への登場に遅刻してきた蝉は,同僚がいなくなっていることになります。皆早々と生ききっているからです。遅れた蝉は,生まれながらにこの世に一人ぼっちです。もちろん,伴侶がいるわけでもなく,生への本能が燃えることもなく,訳も分からないままに,命尽きていくのでしょう。
 人は生まれた年の違うものが同じ時間を共有できます。数十年前に生まれたものと今生まれたものが同生できるのです。それを何の不思議とも感じていません。逆に,この街,この市,この地方,この国にたった一人という状況を想像することは全くありません。SFでは,最後の人類というシチュエーションがありますが,あくまでも空想です。目の前の蝉を見つめながら,その蝉の身になって,独りぽっちになって木に止まっている自分を考えると,恐ろしくなってきます。
 蝉の後に登場する赤とんぼも,最後の一匹という状況に遭遇することでしょう。蛍も。蝶は越冬するものもいるようですが,冬は休眠するので,独りぽっちという蝶がいるはずです。連想を跳躍すると,鮭は産卵のために遡上して生を終えます。遅れてきた鮭は,独りぽっちになります。考えている生き物はいずれも,独りで成長できるものたちです。子育てが必要なものは,親子の共生が必要なので,重なってくることになります。
 若い世代と一緒に生きていけるというのは,仕合わせなことです。改めて,気がついています。ただ,独りぽっちになる生き物が不幸せということではありません。それぞれに精一杯に生きていることが幸せであるはずです。ただ,人の幸せは仕合わせであり,仕(=すること)が合わさること,少なくとも二人がいて完成するという形が条件になっています。言葉は生きているスタイルに依存するので,それぞれに幸せがあるはずです。

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(2015年08月23日号:No.804)