《夜のまち 人の気配に 安心し!?》

  Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 子どもが声をあげながら走り回り,犬が吠えています。夕暮れの鳥のさえずりは何を伝えようとしているのか,ぼんやりと聞いています。予定していたやるべきことを終えて,ちょっとだけ佇んでいると,まわりからそれぞれの生きる息づかいが伝わってきます。黄昏れてくるにつれて,静けさに包まれます。みんなお家に帰って行ったのでしょう。そこには温かな団欒が待っています。
 日々是好といったのんびりとした気分は,ほんの束の間です。国際化・情報化という流れのまっただ中に巻き込まれている今,ブラウン管に映し出される人々に否応なく思いを重ねる仕儀となると,身につまされることが多く,一人のんびりと構えていられない気分になります。とは言えそれだけの気持ちの動きに過ぎず,格別何らかの行動に移すには,ブラウン管の向こうはあまりに縁遠いままです。
 いろんな出来事が映像や文字による情報として茶の間にまで届き,居ながらにして野次馬になれます。あらゆることがエンターテイメントに変質していきます。大きな事故情報であればあるほど「すご〜い」という興奮がわき上がります。それは,映し出された対象への思い入れが後回しにされた,目撃したという観賞者の興奮です。ことによっては,そのような姿勢は不謹慎だとの誹りを受けることになるでしょう。現場で肌で感じることとの違いが大きな要因ですが,人の感受性も褪せているようです。
 ローマの皇帝ネロが非道なエンターテイメントに興じたと伝えられ,暴君と非難されています。仕組んだ者の責任は重いでしょうが,同時に一緒になって観覧していた市民も多かったはずであり,加担したという責任も問われます。
 都会化した暮らし方は我関せずという意識を育てます。人が密集すると人間的なつながりを持てなくなっていきますが,人が持ち得る親密さの容量を超えてしまうからでしょう。親密さを維持できる範囲は,家族,肉親,親戚,友人,同僚,知人,同士・・・と拡大する一方で,次第に疎遠な関係になっていきます。思いをつなげることのできる容量は有限なのです。
 核家族では家族から友人,同僚と飛び,その先はただの通行人的関係,つまり見ず知らずの人として警戒すべき対象にさえなります。人との関係が連続的ではなくて,断続的です。それだけに我関せずという線引きがクリアになってしまいます。袖振り会うも多生の縁とか,一期一会といった微かなつながりの妙を意識していたときの温もりは無くなっています。それが都会人の孤独感であり,感受性の亀裂なのです。
 せめて向こう三軒両隣という人間関係が人付き合いのワクチンとして機能できたらいいのですが・・・。

(2001年10月28日号:No.82)