《仕合わせは この身一つを 自覚して》

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 大学の講義で,板書された内容を学生がスマートフォンで撮影しているという,記者の経験が書かれていました。講師を務めている専門学校では,講義中の携帯電話等は使用禁止になっています。講義中の話やメール送受信を禁じる措置ですが,撮影もできません。
 手習いという言葉があります。もちろん,文字の書き方をお手本の通りになぞって覚えていく所作のことですが,板書内容を手書きでノートに書き写すという学びにも当てはまります。文字を覚えるには何度も書いて,手で覚えることが強いられていました。
 パソコンのワープロで文書を仕上げていると,文字を筆記する力が衰えています。読めるのですが,書けなくなっていきます。読みは字像を絵として認識しますが,書きでは文字を形作るすべての線を過不足なく描き出さなければなりません。一画ずつ順を追って並べる作業は,手作業となります。字は手で覚えるものなのです。
 講演を聴く機会がありますが,最近はパワーポイントを使った形が主流です。紙媒体に印刷した資料が用意されていないとき,板書ならぬ画面の文字を筆記しようとすると,画面の転換について行けません。板書されている場合は,書くという作業が共通ですので,ついて行くことが簡単です。大事な画面を記録するためには,どうしても写真記録をするしかありません。聞き手に書く暇を与えずに先を急ぐ講演,どうしても一過性になりやすく,感動も浅くなります。
 OECDの調査から,学校で生徒一人当たりのパソコンの設置台数を増やした国ほど,成績が下落傾向にあることが分かったということです。学びの世界にITが侵入して,手が使われなくなると,知識を脳に定着させるプロセスが省かれていくのでしょうか? 智恵の成長と考えると,育ちの時間は手作業というペースに一致していると見なすことができるようです。人はIT機器ではない,ということです。
 旅行に出かけると記念にとあれこれ写真に撮り,メモリーが積み重なっていきます。見返すことはほとんどありません。思い出そうとしても,カメラのレンズ越しで限定的に眺めただけで,生の目でしっかり見つめていないので,視野の中にあったはずの風景は記憶されていません。旅に行って記録すべきものは何か,映像ではなく,感動の経験であったのではないかと反省すべきです。
 身の回りのあれこれから,私は生身の人である,という意識が薄れていくことを怖れます。特に,情報社会は忘れるという機能を持っていません。女性に振られた男性が諦めきれずに女性に危害を加えるという事件などは,忘れるという能力を情報社会になじみすぎて育てていないからです。私は人である,それで何がいけないのか,問い直すことも大事でしょう。

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(2015年10月04日号:No.810)