《安らぎは 人目おそれず 身を正し》

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 6月1日の西日本新聞の春秋欄は,次のように始まっていました。

 悪いことをしたね。気付かずに,先に席を譲ってしまって。朝の混んだバス。乗ってきたつえのおばあさん。何も考えずに「どうぞ」と。
 黒いスーツの君。就職活動の女子学生だろうか。席を立ちかけて,こちらを見て,周りを見て,気まずそうに腰を下ろし,バスを降りるまでずっとうつむいていた。周囲の視線が痛かったのか。

 やさしい気持ちが中断されて,届けられなかったことをつらいと思ってしまうのが,やさしい人。そういう趣旨の展開が吉野弘さんの詩「夕焼け」を参照しつつ続いていました。
 女子学生の立場になったとして,自分だったらどう思うだろうか,想像してみます。自分が席を譲ろうとした矢先,隣の人が一瞬先を越して立ち上がったとしたら,素直に座り直し,お年寄りが座ることができたことをよかったと思うのではないかと想像します。譲る人が自分ではなかったことを恥じることはしないと思います。
 女子学生という立場を勘案すると,若者が席を譲るべきという周囲の視線を意識するかもしれません。しかし,やさしさに年齢順を持ち込むのは不適当です。似たようなこととして,あいさつは年下の方から言い出すべきという意見が出ることがあります。年齢に関係なく,どちらからでも声を掛けたらいいはずです。もっと話を広げると,やさしさを提供するのは行政から,といった発想もあります。それはそれとして,条件などは別としてとりあえず自分のできることをするという発想がやさしさでしょう。
 座っている自分の前にお年寄りが近づいてきて立っているとき,席を譲らなければと思いつつ,立ち上がる勇気が出せないと,自分を責めることになります。そのような場合,周りからの非難を勘ぐることがあるかもしれませんが,それは無用と割り切った方がいいでしょう。周りの人は自分が立たないのに,他を責める資格はないからです。すぐ前の人が譲るべきという順番などはありません。居眠りを装って無視するというのも,情けない姿を衆目にさらしていることでしかありませんが。
 かつて人の目を気にして行動を修正するということが普段の生活で行われていました。人目があるから,悪さを控えるという抑制です。いまは,目立ちたいからバカな振る舞いに及ぶということがネット社会に登場しています。人の目に対する感じ方が変わったのでしょうか? 思い描く人の目は,結局は自分の目であると考えるなら,自分の物事を見る目が変わってきたということになります。
 社会の一員としての自分,社会に向き合っている自分,間合いの取り方を間違えないようにする必要があります。

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(2016年06月05日号:No.845)