家庭の窓
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この頃,情報社会の荒波から飛び散るしずくに悩まされています。下手な文学的語りを気取っていますが,要するに切り抜きやコピーが増えてしようが無いということです。利用するためには分類すべきですが,大まかに2つに分けています。ネット記事のハードコピーと新聞の切り抜きがほぼ毎日出てくるので,貯まっていきます。一度目を通しているので,あんな情報があったということは思い出すことができそうですが,忘れていくときが来るはずです。
会議のあいさつの枕に使えるかと拾った情報も,大半が積んどくことになっています。どういうタイプの情報が集まってくるのか振り返ってみると,何か気付かされるものが多いようです。思いもしなかった意外な視点を教えられると,ワクワクします。面白いと思うと,取り込みたくなり,忘れないように,ストックしたくなります。ところが,日々新しい情報を取り入れているので,定着プロセスが手抜きになるので,一過性に流されてしまいます。無駄なことをしているかもしれません。
処理能力を超えた情報収集は,無駄になるはずです。無理矢理食べても腹を壊すだけと同じです。いつか使えそうだというモノや情報はいつかがほとんど無いという経験を持ちながら,つい手を出して同じ愚かさを繰り返します。愚かである思いながらも,一方で愚かであることから抜け出せないのは,何かしら意味があるのかもしれません。人は全てを見通すことはできないとの限界を想定すれば,愚かと断じることが間違っているかもしれません。
情報その物に意味を見つけることだけではなく,情報を取り入れる行動に意味があると考えることもできます。新しい情報に関心を持って,情報に触れていることで,情報の選択力が維持され向上するということがあります。することがあれば,素直に取り組んでいればいいと,思うことにしています。
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