家庭の窓
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西日本新聞(平成28年7月14日)に,小学3年生の詩が掲載されていました。元小学校の先生であった大学教授が寄稿している親へのメッセージ記事の中です。
お嫁さん
ぼくは
お嫁さんはいらない。
だって夜おそく帰ってきたら,
「どこに行ってたの!」
とか
「こんなおそくまでどこにいたのー!」
と聞かれるからです。
それにおさいふの中身を
勝手に使われたら
たまったもんじゃありません。
だからぼくは
お嫁さんはいりません。
子どもが思うお嫁さんのイメージは母親なので,この小学生の母親の姿であろうということで,子どもにどう見られているか,たまには考えましょうという記事の結びになっています。
夜遅くなったときのお嫁さんの言葉を読んで「そうだ!」と共感する亭主の気持ちが,後半のお財布の中身に話が及んだとき,笑い出したことでしょう。「たまったもんじゃありません」という一言が効いています。
子どもの目は見たままであり,夫婦の間の心の交流は見えていません。そうではないのよ,と母親は言うことでしょう。なぜ子どもには見えないのでしょう。それは夫婦の経験,つまり自分のお嫁さんを持ったことがないからです。経験していないことは見えないのです。同じことはいくらでもあります。若い人はお年寄りの言動は理解できません。歳を取った経験がないからです。健常者は障がい者の言動を理解できません。経験していないからです。男女もそうでしょう。
経験していないことは想像するしかありませんが,分かりきれない部分が残るということを弁えておくべきです。分かったつもりに断言してしまうと,困ったことになっていきます。小学生がお嫁さんはいらないと思い込んでしまったら,結婚できなくなります。たまったもんじゃないのに,どうしてお父さんはお嫁さんを持ち続けているのかという疑問を持つことが必要になります。早とちりをしないことです。
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