《安らぎは 危うさ想定 身構えて》

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 自治体や組織の中期計画に携わる立場にいると,「安心・安全なまち・地域」といった目標を立てることに出会います。広く世界に目を向けると,身近なたたずまいはそれなりに安心で安全であると言える状況にあるように思いながら,これ以上の安心や安全を作り出すのは大変なことと心配します。一方で,安心・安全を目標にするという背景には,現状が十分に安心・安全ではないという認識があることになります。安心ではなく安全でもない状況が普通のことであり,その不十分さが現実であるという常識が希薄になってきたようです。
 世間は車社会ですが,必ずしも完全に安全ではありません。車は幾ばくかは危険なものであるとあきらめて,個々が気をつけるというのが常識です。安心や安全は理想的な100%達成は不可能であり,不完全さを埋め合わせるのは個々の配慮に任されるものでしょう。世間のみが安心・安全を確保する責任を負うものではありません。その了解を失うと,人任せの安心・安全という無理難題になります。社会も個人も,お互いに努力する目標として,安全・安心が想定されるのです。
 熊本地震のような自然の猛威が人間社会を一瞬に破壊します。人はどうにも抗えません。せめて減災をという努力のみが可能です。不幸な経験を学んで備えることが大事ですが,限られた時間とエネルギーの配分が問題になります。備えるためには状況の想定が必要であり,想定外のことが残されます。そこには安全と安心が補償されなくなります。目をつぶって考えないようにするか,そのときは仕方がないとあきらめることにするか,選択するしかないようです。
 どこにどのような危険が隠れているか,どの程度の危険が迫っているか,そのような危険センサーを磨いておかなければなりません。暮らしの中でひやっとすることがあります。そのセンサーを研ぎ澄ませるように努めるのです。周囲に気を配る,気を抜かない,気配を感じるという姿勢です。ケータイを眺めながら歩いているような不用心さは危険です。安全を確保するのは,自分の責任でもあると認識すべきなのですが。

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(2016年08月21日号:No.856)