《安らぎは 苦痛乗り越え 成し遂げて》

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 山を遠くに眺める環境に住んでいます。子どもの頃は,里山暮らしであり,名もない山を庭として駆け回り遊んでいました。学生の頃はゼミの行事で名のある山に出かけて,大汗をかいたこともありますが,どちらかといえば,下から見上げている方がいいようです。
 例によって,新聞コラムに,山小屋の主人の言葉というものが紹介されていました。「なぜ山はいいのか?」 登っている間は「きつい。もうやめたい」とマイナスの心が動く。それでも登っていくのはプラスの意志。上り詰めた感動は感謝の心を生み,また前向きの力になる。
 身体の楽になりたいという欲求に対して,やり遂げようという心の求めが打ち勝つという構図は,日常的な葛藤です。朝眠いのに起きなければならない,ということから始まり,寝るだけが楽しみと解き放たれることの繰り返しです。生きることが辛いというとき,それでも生きなければと願う意志は,どこから出てくるのでしょう。山登りという試練を楽しむ理由は,挑戦することが本能であると答えることができるでしょう。
 人生を歩みと例えると,歩き続けることになります。なぜ歩き続けるのか,その理由は,それが生きるということ,と返すことになります。人の命が自らの意思で生み出されていない状況では,かつて神様が授けてくれたと考えていた状況では,自問可能な問ではないはずです。私は何故生きているのか,私には分かりっこないのです。生まれちゃったから,命を受け継いだから,ありがたく生きていこうと感謝していればいいのです。
 生きるといっても,ただ生きていればいいというのではなく,どうせ生きるのであれば,よりよく生きるという目標は自らに課してもいいはずです。何がよりよい生き方であるのか,人の歴史が語り伝えてくれます。必ずしも楽ではない生きる目標に向かっていく意思が,ここのところ衰退しているような気がしていますが,どうなのでしょう。人智の蓄積が豊かになってきたようですが,豊かになりすぎて手に余っているのかもしれません。その一つの表れが情報過多です。
 山登りで汗をかき身体を酷使するという現実に向き合っていると,意思は暴走を免れます。しかし,情報の世界だけに浸っていると,現実という抑制が不能になるのです。現実を彩る悲しみや痛みという人間性が失われたら,最も大事な目的である人がよりよく生きるという道を踏み外します。山登りは必要なのです。 

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(2016年09月11日号:No.859)