家庭の窓
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お天道様が見ている。天に恥じないように。かつて,名もない市井の人々が自らの行動を測っていた物差しです。西欧では神との契約,審判という物差しがありました。一段高い所から見られているので,大きな判定が可能です。今は,かろうじて世間の目というレベルに降りてきました。そこで,低い目線ですので,小さな判定でしかありません。自分の行動が及ぼす影響の範囲を,ごく身近にしか想定していません。大所高所という視座は失われています。
自分勝手な論理を振り回すことが横行しています。ムシャクシャしたから,近くに居る人に刃物で襲いかかったという説明をする幼稚さ,愚かさに呆れます。自分の世界を他者につないで見ることができないのです。他者とつながっている自分,その両方を見下ろしているお天道様,そのお天道様を意識することで,自分は他者とつながっているという世界観を認識することができます。
もう一人の自分が大所高所に登って自分を見下ろしてみる,それが人としての目線です。自我とは,自分と自分を見下ろす我との一体なのです。かつては誰もが自分の中にお天道様に仮託した我を懐くことができていたのに,なぜできなくなっているのでしょう。世間という人の目では,見つからないように誤魔化せば,逃れることができます。白紙の領収書を恥ずかしげもなく使い回す愚かさを,それなりの人が晒している現状は恐ろしくなります。
イギリスのEU離脱,アメリカの最低の大統領選挙,フィリッピンの変動,中国の強進出といった従来の流れとは異なった動きは,人々の行動パターンが低位置になり自己主張過剰になってきたことに要因があります。俺が俺がという行動が醜いことであるという感性が失われてきたのは,なぜなのか。情報社会の中で,人は視野が処理能力以上に広がってしまい,あたかも自らが天の視野を持っていると錯覚しているのかもしれません。自らがお天道様と勘違いして,慢心しているのでしょう。気をつけるべきことは,情報は誰かによって選別されているということ,自らに都合のいい情報を無意識に取捨選択しているという感度の偏りを認識することです。
自分の目が曇っている,偏向している,そういう危惧を持っていることが大事です。情報は自ら考えるための材料であり,料理をされなければなりません。自分に見えていない世界があることを想定して,行動を振り返ってみること,その余裕が考察を深化することになるでしょう。
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