家庭の窓
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子どもの頃,父に連れられて東映の時代劇映画を毎週のように観て育ってせいか,未だに時代劇が好きです。水戸黄門のような単純明快さが染みこんでいて,現代ドラマの展開がしつっこく感じられて,あまり観る気になれません。テレビぐらいはのんびり観たいものだと思っています。
お奉行所の裁きでは,比較的重い罰には三宅島に遠島,軽く済ませるときは江戸十里四方所払いが言い渡されます。要するにいなくなればいいということでしょう。悪人が追い払われてすっきりとし,円満解決で終わります。長い間,その解決に何の疑問も持たずに見過ごしていました。
何事かと言うと,三宅島や江戸十里四方の外には,悪人が送り込まれるということです。考えるまでもなく,住人には迷惑なことです。名奉行ともあろう人が,そんな罪作りをしていることに気付かないのは何とも納得がいきません。自分さえよければという発想は,裁かれる方と同じではないのか? そう思ったとき,大岡越前や遠山金四郎が急に色褪せてきました。単純にめでたいと名裁きを喜んでいては浅はかです。
ある組織のトップが組織を立て直すために,徒をなすものを放逐するという解決策を採ることがあります。現代社会でもよく見受けられる事例で,例えばサラリーマンの懲戒免職ということもあります。ということは,社会に悪を犯した人を送り出すことにならないのでしょうか? 誰もそのことに異を唱えないのは,なぜなのでしょうか? お奉行の裁きは間違っていないということかもしれません。
組織が腐るという言い方があります。悪の色に染まるとも言います。悪事に手を染めて,悪事から足を洗うと言います。手を染めたのなら,なぜ手を洗うと言わないのでしょうか? そういう言い方をする背景にはどのような考え方があるのか,とても気になります。
江戸という華やかな消費都市では罪への誘惑が渦巻き,歯止めの雰囲気も低くなりがちです。つい罪を犯してしまうことも多くなると推察できます。組織の構造腐敗も犯罪の温床になります。環境が罪作りをしているということです。それならば,そういう場所から離脱させれば,正常な倫理観を取り戻せるはずです。犯罪者の更生に環境を変えるという手法が取り入れられているのも分かります。
江戸所払いとは,罪を誘発した環境を変えさせることで,更生の道を歩ませるという意図があったのです。決して悪人のたらい回しではなく,江戸の人々の温かさが底流に流れていることが分かります。悪に染まった手を洗うのではなく足を洗うという意味は,環境を離脱するということなのです。本当に理に適った言い様だと感心させられます。
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