家庭の窓
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「高1いじめ自殺訴訟 加害者代理人が反論」という見出しの,小さな記事があります。高1の女性生徒がLINEに悪口を書かれたことなどのいじめが原因で自殺したとして,遺族が県と加害者とされる生徒に数千万円の損害賠償を求めています。
加害者とされる生徒の代理人は「いじめではなく,女子生徒とケンカをしていたに過ぎない」と反論しています。「(自殺した)女子生徒がののしったことへの反撃の言葉だった」と主張。インターネット上でいじめ加害者との情報が流布し「人生を大きく変えられてしまっている」と述べたそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・(西日本新聞:1月19日)
以上の断片情報を読んで,何を受け取ればいいのでしょう。被害者に肩入れすると,いじめではなくケンカだという言い方は逃げ口上に過ぎないと判断するでしょう。加害者に加担すれば,売られたケンカに応じただけのことで,一方的な理不尽なことはしていないと悪意を否定しているにすぎないことになるでしょう。何の由縁もない者は判官贔屓となって,自殺した被害者の側に寄り添う受け止め方をすると思われます。ただ,加害者の情報をネットに晒した心情につないでいくことは行き過ぎです。被害者に成り代わって正義ぶって報復しているというのは論外です。
新聞情報は事実だけを伝えているのであり,それをどのように意味づけしようと,それは読者の勝手です。訴訟ですから,反論するのは当たり前のことです。それぞれの主張のどちらを認めるか,それが争われているのです。
自殺の原因がいじめであるとしたときには,論点となるのは,いじめかケンカかという認識です。考えるべきことは,被害者がいじめと思っていたのであれば,加害者がケンカであると言っても,いじめであると判定すべきでしょう。加害者はケンカという認識であり,いじめではないと思っていたとしても,相手にとってはいじめであったということに気がつかなかった過失があることになるのでしょうか。相手がどう感じるかということまで問わなければならないとしたら,気配りも大変になります。
LINEに書かれた悪口がケンカであるのか,LINE上でのケンカというものがあるのか,ケンカとは直接に向き合ってするものではないのか,新しい状況の中での言葉の定義が必要にもなってくるはずです。
子どもたちのいじめによる自殺が後を絶ちません。いじめられて追い詰められている子どもの恐怖をぬぐい去るためには,まずいじめに気付いてやることです。ケンカに見えていても,それは強者の目線です。ケンカのできない弱者がいるということを認知することが,子どもたちの側にいる大人の責任です。
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