《安らぎは まさかのことも 想定し》

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 「まさかこんなことが…」という書き出しで,購読紙のデスク日記が始まっています。新聞も含めてマスコミ報道はありふれたことは相手にしないので,「まさか」とわざわざ断らなくてもいいのにと思ったりしています。希少な出来事であるほど知らせる価値がある一方で,滅多にないことを知る必要もないという対応もあります。「まさか」ということが運悪く実際に身に降りかかった際に不都合となるような出来事なら,用心のために一応知っておくことも必要です。
 「まさか」という出来事は,おしゃべりの種として,「知ってる?」と流布する楽しみを与えてくれます。書かれていた出来事のあらましはこういうことです。

 有料駐輪場に止めていた自転車が,放置自転車として撤去されてしまいました。レーンに前輪が自動ロックされて,外すのに100円が必要なタイプだったそうです。受け取りに行くと,同じような被害が増えていると教わったということです。どういうことかというと,駐輪場が満車の場合,先に止めてある他人の車輪のロックを外し,自分の自転車と入れ替えてしまうのです。外された自転車は放り出されることになるので,回収業者に放置自転車と見なされて回収されるのです。

 自分勝手な卑怯な所業がもたらす迷惑千万な出来事です。「まさか」そんなことをしでかす人がいるとは! 社会性の欠けた呆れる振る舞いが思いもよらぬ場所に伸びています。人の悪知恵は留まるところがなく,「まさか」という壁をすんなりと素通りしていくようです。満車で駐輪できないという切羽詰まった状況で,潔く諦めるのが普通だとしても,それでもなんとかならないかと考えると,空きを作り出せばいいと気がついてしまいます。それが邪道であるということにも気付くべきですが・・・。
 どこの誰か知らない人に掛ける迷惑には,気が咎める程度が低くなります。袖振り合うも多生の縁と,見ず知らずの人ともそれなりのつながりを感じることができていた世間では,なるべく余計な迷惑を掛けないようにと気配りをしていました。人のことより自分の満足を最大に実現することが大事だという生き方は傍迷惑であると,教える人がいなくなっているのでしょう。言っても聞かないと諦めるのではなく,よってたかって矯正する世間を取り戻したいと願います。

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(2017年04月09日号:No.889)