家庭の窓
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情報社会を構成する部品として,言語があります。多様な言葉があるので,通用圏が国を基本としてちりばめられています。住み慣れた言語圏で,時折,意味が通じないと感じることがあります。政治の世界での言葉の不可解さは別物として,普通の暮らしの中でも,見過ごしてはいけない曖昧さに出会うことがあります。
日本での自殺の割合はかなり多いということです。マスコミを通じて届いてくる事例は,生徒の自殺です。ほとんどの残されたメッセージでは,いじめによるものと訴えられています。それでも学校からはいじめは認められていないというメッセージが表明されます。
あるテレビ番組の案内文を新聞紙上で見ました。
***今年4月,北九州市の私立高校2年生の女子生徒が登校中に自殺していたことがわかった。学校側は当初,遺族に対し,「いじめはなかった」との認識を示していたが,遺族が情報提供を呼びかけたところ,集団で無視するなどいじめを疑わせる複数の情報が寄せられたという。あくまでも,「いじめではなくグループ内のトラブルだった」と言う学校は,第三者委員会を設置し,実態を明らかにするとしている。(以下略)***
「集団で無視するなど」とはいじめです。それを文章では「いじめを疑わせる」と断定を避けています。さらには学校は「グループ内のトラブル」と言っています。自殺した当事者が「いじめ」と言い残しているのに,第三者はいじめと「疑われる」と身を引いて,指導する立場にある学校は「トラブル」と見なそうとしています。立場が代わると,一つの事象を言い表すことが変化しています。
言った言葉に責任を待たなければならないという自覚があるはずです。いじめであるといった生徒は,とても残念ですが,命を懸けるという責任を果たしました。いじめという個別の事象を,トラブルという広い意味を持つ言葉に後退させて,事象を見ていない粗雑さを露呈しています。勘ぐれば,トラブルにはいじめも含まれるが,そこまで確認できていないということでしょうか。
周りの人はただのトラブルと認識していることが,当事者には死ぬほど辛いいじめであると認識されている,そのギャップが事象の意味づけを天と地ほどの違いにしていきます。言葉が通じないというとき,いじめられている生徒は恐ろしい孤独に追い込まれていくことでしょう。その孤独が自殺への背中を押しているのではないかと思うと,とても悲しい気持ちになると同時に,孤独にならない支えが見つけられたらと残念です。
いじめが自殺に直結するか,いじめが自殺の原因とまでは言えない,そういう声も出てきます。いじめられた子どもが必ず自殺するか,自殺しない子どももいるではないか,という反論です。いじめと自殺の関係に公式があるかのような話ですが,人の思いや生きる意欲は人それぞれであるということが認められるべきです。公平性という物差しをつくる努力は大事ですが,それは人の幸せのために生かされることが原則です。それは分かっていても,現実の言葉による定義づけはとても困難であることが悩ましいことです。
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