家庭の窓
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ついこの前までの朝,カエルとセミの混声合唱を間近に聴いていました。今は,カエルの声が近く,セミの声は遠のいています。我が家の庭木で鳴いていたのはクマゼミで、今遠くに聞こえるのはアブラゼミです。セミたちは棲み分けをしているようです。
何を書くかと考えるとき,周りからどのような働きかけを受けているか、刺激を受けたことへの反応を言葉にします。暑いな,風がほしいな,今日も雨は降らないのだろうな,うるさいな,お隣の家の取り壊しが始まったな,風景が変わってしまう。断片的な反応が無言の言葉となって,浮かんで消えていきます。
何かについてまとまった文章を書き出そうとすると,起承転結の形に沿うことが基本です。対話をしているときは,二人の間に現れた共通の話題について了解をするために,言葉をつないで説明をすることになります。一人でいるときには,反応はありますが,説明を要する話題は生まれてきません。いわゆるボーッとしてしまうしかありません。思考が焦点化しないので,言葉のつながりようがないのです。
道を歩いているとき,乗り物に乗っているとき,スマホをいじっている人を見ると,何らかの働きかけを受け止めていないと,頭が不安定になるような感じがしているのではと思います。何も感じないという状況が落ち着かないのでしょう。情報社会の中では,人に情報という刺激が隙間なく降り注いでいます。それに慣れると,情報刺激がないことが不自然と感じられます。
情報社会にあふれる情報は,人が加工したものです。暮らしの環境には、人の思惑によらない自然があります。自然とどのように折り合いをつけていくか,生きていく上で時に重大な局面があります。日常的には,かつて,朝起きて空を見て,今日一日の天気はどうなるかを判断しようとしていたのに,今はテレビの天気予報を見ています。自分の感性を直接に機能させずに,情報に間接に頼り切っている,そのお手軽さが生きる感性を鈍化しているのではと気になります。
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