《安らぎは 不安の元を 明らかに》

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 新聞の論評欄に「道徳教育,大切なことは?」という意見が掲載されています。来年度から導入される道徳教科についての考察です。その一部が気になりました。

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 大切なものとは何か。アメリカやオーストラリアなどの教育現場で小学校低学年向けの哲学系の授業などによく使われる絵本に「たいせつなこと」がある。この本では子どもにとって身近なものから,その本質とは何かを考えていく。
 たとえば,スプーンならば「てでにぎれて/たいらじゃなくくぼんでいて/いろいろなものをすくいとる/でもスプーンにとって/たいせつなのは/それをつかうと/じょうずにたべられる/ということ」という具合だ。靴やりんご,空などが登場し,ラストは「あなた」について考える。「たいせつなのは/あなたが/あなたで/あること」
 他方,日本の道徳教科書すべてに採用された「かぼちゃのつる」は,以下のような話だ。ぐんぐんつるをのばすかぼちゃはハチや犬に「みんなのとおるみちだよ」などと止められるが「こっちへのびたい」と聞かず道路にはみ出す。揚げ句,トラックにひかれて泣いてしまう。テーマは「わがままをしない」である。
 あまりの落差に愕然とする。「たいせつなこと」が存在の本質を見通し子どもの自己を根底から肯定しようとするのに対し,「かぼちゃ」は表層的な寓話を通して自我を世間にとって都合良く曲げようとするのみだ。後者は子どもをなめていないか。それぞれの教育を受けた人が後に出会ったら,その差は明らかだろう。
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 「子どもの学び・育ちを考えて」というタイトルがついていて,論者の言いたいことは分かります。ただ,読んでいて,滑らかに受け止められないのです。読み直してみて,事例の選択に行き着きました。アメリカでの事例は,論者も明記しているように哲学系の授業の教材です。日本の例は,道徳の教材です。教科が違うのです。哲学では人の尊厳を追求し,道徳では人の生きる道を探ります。違うものを並べて,その差は明らかと言われても,どうにも考える契機にはなりません。
 子どもの育ちにとって問題となるのは,物事の本質を考えさせる哲学という教科が.日本では設けられていないということです。さらには,その学びを道徳に求めることは適当ではないということです。世界的な比較調査の結果として,日本の子どもたちは自尊心が低いということが言われます。あなたがあなたであることが大切なこと,その哲学的な教育を施していないという反省をすべきなのに,一向にその動きが見えてこないことが気がかりです。
 哲学的な学びというと大層なことに思われますが,人の育ちにおいては,かつては年寄りが子どもに語り伝えていたものでした。人としての尊厳を日々の暮らしの中で見せて導き認めて支えて伝授をしてきました。そのような日常の学びを学校教育が肩代わりし忘れているのが,今の不備なのです。年配者が心身の養育から手を引き,教育者が人の育ちを教科として受け入れることに戸惑っていたためでしょう。少子化も含めて,民族の衰退期に入っているという歴史的諦めが正論かもしれません。

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(2017年08月27日号:No.909)