家庭の窓
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新聞に民進党について論評が載っていました。その中で,引用されて主点に収まった言葉がありました。英文学者の深瀬基寛による論として,英語のプリンシプルという言葉には原理だけでなく,主義と節操という意味があり,その上でこの三つが不可分に結びついていたことが英国政治の強みだったというのです。論者は主義と原理と節操の一体化を,野党になっても崩壊を免れるために必要であると提言していました。
英語ではプリンシプルの一語で表される状態を,日本語では主義と原理と節操という三語で表さなければならないということです。逆に,日本語の主義と原理と節操の三語を合わせると,おそらく三重に重なった部分がプリンシプルで,主義の一部,原理の一部,節操の一部はそれぞれプリンシプルとは違う状況を表しているはずです。大雑把に言えば,イメージとしては,中心の異なる三つの円を描いたとき,三つの円が重なる真ん中の三角部分がプリンシプルになるということです。
ということで何が出てくるのかというと,主義と原理と節操の一体化したものとは何か,腑に落ちてこないということです。例えば,主義と原理の円は重なって見えますが,それに節操という円がとても絡みそうには見えないのです。円の重なりというイメージは,適切ではないのかもしれません。重なりをかけ算と考えるとすれば,他方で足し算と考えることもできそうです。つまり,主義と原理の暴走を抑制する囲いとして節操を付加するというイメージです。
主義と原理と節操の一体化とは,どのようなものでしょう。様々な原理から一つを選び取る価値尺度として主義を確定し行動活動をする際に,他の主義の存在も尊重する節操を持ってするという構造を想定することができます。一体化とは,3つの色が混じり合って新たな色を生み出すというものではなく,それぞれが存在を失うことなく構造となることなのです。異文化の言葉であるプリンシプルを翻訳すると,日本語では構造的になるのは,文化という素地の違いを表現するためです。
国際化と情報化が同時進行していますが,お互いを理解するためには,思考を構造分析的に機能させることが必至となります。人はまだバベルの塔の償いを終えていないということかもしれません。心の平安のために,そういうことにしておきましょう。
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