家庭の窓
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次から次に流れていくニュースの一つに目がとまりました。新聞のコラムにも触れられていました。
福岡市南区の保護司会が「社会を明るくする運動作文コンテスト」の応募作品の9割(1,800作品)を審査していなかった。応募規定は「原稿用紙3〜5枚」だが,3枚目の半分まで書いていない作文は独自の判断で審査の対象外にした。審査の負担が大きかったからという。子どもの気持ちを傷つけて明るい社会もなかろう。
ということです。せっかく応募したのにという,感想でしょうか?
人の振り見て我が振り直せという故事を持ち出せば,このよそ様の不手際の事例のどこが問題で,何を直せばいいのでしょうか? それは「独自の判断」という部分です。このコンテストは法務省が主催するものです。ということは,全国共通のコンテストです。一方で,その審査に当たっているのは法務大臣委嘱の保護司の皆さんです。つまり,全国一斉に同じ活動をすることが使命なのです。従って,南区の保護司と他地区の保護司が異なった仕事をしてはいけないのであり,「独自の判断」はあり得ないのです。審査の負担が大きいという自分の立場を優先した判断をしてはいけないのです。
公的な役職を務めている方,特に大臣の委嘱を受けている方の中に,自己都合を主張する方が出始めています。公的な役職とは,対象となる人の平等性を確保することが最重要なことです。全国的であるなら,大阪と東京で異なってはいけません。県内の役職なら,A市とB町で対応が異なってはいけません。対象となる方の差別扱いになるからです。
役職の私物化ということがじわじわと進行していると感じます。頼まれて役職を引き受けても,自己都合で忙しいからと役目を果たしていないと,その方がお世話しなければならない人たちをないがしろにしています。もし他の方が役を引き受けていたら,きちんとお世話できていたはずです。役職を自分勝手な独自な判断で休止状態に追い込んでいると弁えることのできない情けなさを,それなりの大人が露呈しています。
自動車会社の検査の不手際は,無資格者が検査してもかまわないという「独自の判断」が起因しています。その結果として,車を買って乗る人に対する責任の自覚が消滅しています。福井の中学生に対する指導死を引き起こした担任らも,生徒のことではなく自己都合の独自の判断にとらわれていたのでしょう。社会における人の存在は,どのようなものであっても,自らの役割が関わっていく人に対して責任を持つことにあります。
その責任が果たせないと自己確認したなら,さっさと身を引くことです。そのように日々自らに問いかけています。
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